覚え書:「論壇時評 テロ対策 「宗教」決めつけの落とし穴 歴史社会学者・小熊英二」、『朝日新聞』2016年09月29日(木)付。

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論壇時評 テロ対策 「宗教」決めつけの落とし穴 歴史社会学者・小熊英二
2016年9月29日

 11年前、パリ郊外のサンドニ地区に行ったことがある。高層アパートが並ぶ風景は東京郊外と似ているが、住人はほとんど移民。言語の壁もあり教育レベルは上がらず、若年失業率は5割以上。職があっても、遠くパリ中心部まで通勤し、道路工事やカフェのウェイターだ。案内役のNGO職員は「差別と貧困の悪循環で未来が見えない。それがこの地区の若者の最大の問題だ」と言っていた。

 私が訪問して数カ月後に、この地区の若者が暴動をおこした。そのニュースを聞いても、私は驚かなかった。

 そして昨年11月、この地区に拠点を置く若者たちが、パリ中心部で同時多発テロをおこした。そのニュースを聞いても、私は驚かなかった。11年前の暴動と背景は同じだと思ったからである。ただし、その若者たちが「イスラム過激派の戦闘員」と報じられていたことだけが、11年前の暴動とは違っていた。

     *

 今年7月、ドイツのミュンヘンで銃乱射事件がおきた。容疑者は18歳の高校生。両親はイラン人だったが、本人はミュンヘン生まれ。学校でいじめを受け、成績も悪く、うつ病で精神科治療をうけていた。彼は犯行中、「この馬鹿な外国人野郎」と罵(ののし)られて、「俺はドイツ人だ。ハーゼンベルグル(トルコ人が多い貧困地区)で生まれた。トルコ人は大嫌いだ」と叫んだという。彼が殺したのは大半がトルコ系やギリシャ系の若者で、最後は自分の銃で自殺した〈1〉。

 この事件はイスラム教と関係なく、差別や不適応が原因とみられている。もともとドイツでは、経済停滞に悩む旧東独地域などで、2002年と09年に十数名が犠牲になる銃乱射事件がおきていた。

 にもかかわらず、ミュンヘンの事件のあと、ドイツでは多くの人が「IS(イスラム国)による無差別テロ」だと考えたという〈1〉。事件の社会的背景を見ずに、「イスラム」や「IS」の問題だと思いこんだのだ。これは事実誤認と差別以外の何物でもない。

 恐ろしいのは、政府高官や専門家までもが、こうした誤認に捉われていることだ。アメリカの元国防次官と外交問題専門家の共著による論文は、以下のように書いている〈2〉。

 「難民危機が深刻化し、ISが活動を積極化させるにつれて、もはやドイツも例外ではなくなったようだ。……バイエルン州ビュルツブルクではアフガニスタン出身の17歳の難民が列車内で5人の乗客を斧(おの)で襲撃し、同州アンスバッハでも、シリア難民が仕掛けた爆発物によって音楽祭会場の入り口近くで15人が負傷する事件が起きた。その後も、18歳のイラン系ドイツ人が、ミュンヘンのショッピングセンターで9人を殺害し、ロイトリンゲンでは、21歳のシリア難民の男性が、袖にされた腹いせに女性を鉈(なた)で殺害する事件が起きている。」

 これらの事件の共通性は、犯人が「中東系」という以外に何もない。それでもこうした認識に基づき「テロ対策」が行われる。この元国防次官の論文が主張しているのは、捜査機関による個人情報収集の促進と、「プライバシー保護」から「安全保障重視」への転換なのだ。

 しかしこうした「テロ対策」は、本当に有効なのか。ガソリンが充満している状態を放置したまま、マッチだけを厳禁するようなものではないのか。そのために個人情報保護を緩和するのは、失うものの方が大きいのではないか。

 想像してみよう。未来の見えない青年が、無差別殺傷事件をおこす。場合によっては、彼はたまたまネットでISの映像を観(み)て、それらしい犯行声明を残したかもしれない。しかし恐らく、それは単なるきっかけに過ぎない。ISの映像以外の何かでも事件は起きただろう。注目すべきなのは、ISの映像よりも、背景となっている社会状態であるはずだ。

 これは地域紛争にも言えることだ。中東研究者の酒井啓子は、中東の「宗派対立」の多くが、実は別の社会背景から発した対立であることを指摘している〈3〉。例えばあるイラク中部の貧困地帯は、かつてはイラク共産党の牙城(がじょう)だったが、現在ではシーア派反米民兵組織の牙城である。過去には政党対立という形で顕在化していた社会的問題や政治的疎外が、現在は宗派対立という形で顕在化しているのだ。これを単純に「宗教」で考えてしまうと、処方箋(せん)を誤りかねない。

     *

 こうした問題は、日本にも無縁ではない。10年の公安情報流出により、日本警察がアメリFBIと協力して、日本居住の全イスラム教徒を監視して、氏名・住所・渡航歴・よく行くモスクなどの個人情報を記録していたことが明らかになった。井桁大介は、この種の監視捜査は人権侵害につながりかねないうえ、テロの予防効果もないことが世界の研究から明らかになっていると指摘する〈4〉。捜査が日本社会での差別を煽(あお)れば、かえって逆効果の可能性すらあるだろう。

 そしてミュンヘンの事件と同じ今年7月、神奈川県相模原市で無差別殺傷事件があった。事件の背景については、調査を待たねばならない。しかし福祉・介護現場は、未来の見えない職場の一つだ。そして薬物依存は、暴力と同じく、未来の見えない状態で蔓延(まんえん)しやすい。自らも障碍者(しょうがいしゃ)である熊谷晋一郎は「二〇〇〇年代から、だんだん介助に関わる若い人の層が変わってきた」と述べている〈5〉。これが日本社会のどんな状態を反映しているのか、考えていかねばならない。

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〈1〉熊谷徹「欧州人の不安とメディアの役割 ミュンヘン事件で浮き彫りに」(Journalism9月号)

〈2〉ミシェル・フロノイ&アダム・クレイン「テロ情報共有で変化する米欧関係」(フォーリン・アフェアーズ・リポート9月号)

〈3〉酒井啓子「誰が『正しい』かを競う戦い」(世界10月号)

〈4〉井桁大介「ポスト9・11からポスト・スノーデンへ」(世界10月号)

〈5〉熊谷晋一郎「相模原事件の問い 『語り』に耳を傾けて」(世界10月号)

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 おぐま・えいじ 1962年生まれ。慶応大学教授。『社会を変えるには』で新書大賞、『生きて帰ってきた男』で小林秀雄賞など受賞作多数。監督を務めた映画「首相官邸の前で」の上映が米国の計10大学で進行中。
    −−「論壇時評 テロ対策 「宗教」決めつけの落とし穴 歴史社会学者・小熊英二」、『朝日新聞』2016年09月29日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12582307.html





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