覚え書:「日本国憲法、70年の議論」、『朝日新聞』2016年11月03日(木)付。

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日本国憲法、70年の議論
2016年11月3日

グラフィック・甲斐規裕
 1946年11月3日、日本国憲法は公布された。改正を自らの政治目標に掲げる首相・安倍晋三の登場で、憲法を取り巻く状況は新たな局面を迎えている。この70年間の議論を振り返り、憲法と日本社会の「現在地」を考える。(文中敬称略)

 

 ■第1の波(1947〜60年) 噴出する復古的改憲

 日本国憲法の三つの柱のひとつである平和主義は、46年の公布から4年後に早くも曲がり角を迎える。きっかけは50年6月の朝鮮戦争の勃発だ。

 占領下で軍国主義の排除と武装解除を進めたマッカーサーだったが、翌月には警察予備隊の創設を首相の吉田茂に指令。9条と「再軍備」との矛盾が生じた。

 吉田は自衛隊発足を前に「自衛隊が軍隊であるかどうかは定義にもよるが、これにいわゆる戦力がないことは明らか」との論法で9条と整合させようとした。だが、公職追放を解かれた鳩山一郎岸信介らは、自主憲法を制定し、軍備も認めるべきだと主張した。憲法論争であると同時に、親吉田と反吉田の激しい権力闘争だった。

 岸は自由党憲法調査会長に就くと、54年に憲法改正案要綱を発表した。当時は独立回復を受け、他党なども次々と試案をまとめた。再軍備に限らず、天皇元首化▽基本的人権の制限▽国民の義務や家族保護規定の追加など、復古色が強いのが共通の特徴だ。

 岸は57年に首相になると、内閣の憲法調査会改憲の議論を託した。岸は後に自分の使命として「安保(条約)を解決すること、もうひとつは憲法調査会をして『改憲をしなければならない』という結論を出させること」(『岸信介証言録』)と振り返った。

 こうした改憲論の盛り上がりに、国民は敏感に反応した。革新政党労働団体、知識人らが幅広く平和運動に参加。51年に日教組が採択した「教え子を再び戦場に送るな」とのスローガンは、後々まで平和運動の象徴となった。

 58年に設立された民間の憲法問題研究会には政治学者の丸山真男らが集い、安保闘争に加わった市民を理論的にリードした。

 岸は60年6月、強行採決によって安保条約改定にはこぎ着けた。だが、デモ隊と警官隊との衝突で東大生の樺(かんば)美智子が死亡。岸は一連の混乱の責任をとり、志半ばでの退陣を決意した。

 ■凪の時代(60年〜80年代) 経済成長、機運冷める

 安保改定や憲法改正への国民の激しい抵抗は、保守政治家に強い衝撃を与えた。

 中曽根康弘は後に、57年からの佐賀県教組の闘争を描いた石川達三の小説の名を挙げてこう語った。「戦争に負けたけれども、新しい憲法ができて自由を回復した。その民衆の解放感が我々にはわからなかった。60年安保になって一種の『人間の壁』ができたと感じた」(『対論 改憲・護憲』)

 岸の後を継いだ池田勇人は「国民世論の強い反対があった際は憲法の改正は絶対にしない」と明言。これで政界にあった改憲の機運は一気に冷めた。日本は池田が掲げた「所得倍増計画」のもと、未曽有の高度経済成長にひた走っていく。

 自民党政権は9条のもとで自衛隊を存続させつつ、9条の精神を生かした政策を次々に採用していった。

 佐藤栄作内閣は67年に「非核三原則」を表明、三木武夫内閣は76年に「防衛費の対GNP比1%枠」を打ち出した。「集団的自衛権の行使は許されない」とした政府の72年見解が出されたのもこの時期だ。

 市民の側も変化した。60年代まで平和運動の中核を担ってきた労組は賃上げ闘争に軸足を移していく。社会運動の対象も、公害の深刻化を受けた環境保護などへと変わっていった。

 朝日新聞世論調査では、改憲の是非を尋ねる質問がしばらく途絶えた。

 こうした世相に異を唱えたのが、大阪万国博覧会の余韻が残る70年11月に自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入し、割腹自殺した作家の三島由紀夫だ。東部方面総監を人質にとった三島は約千人の自衛隊員に、改憲へ向け立ち上がれと促した。だが、隊員から返ってきたのは「英雄気取りをするな」とのヤジだった。

 82年には筋金入りの改憲派の中曽根が首相に就いた。85年の自民結党30年の新政策綱領に「自主憲法制定」を明記するが、やはり「憲法改正を政治日程に載せることはしない」と言わざるを得なかった。

 ■第2の波(90年代〜2004年) 湾岸戦争国際貢献

 新たな波の到来を告げたのは、90年8月14日早朝、首相の海部俊樹米大統領ジョージ・H・W・ブッシュから受けた1本の電話だった。

 「日本が我々の共通の利益を守ることに完全参加しているシグナルを送ることが、世界にとって重要だ。掃海艇や給油艦を出してもらえればデモンストレーションになる」

 10日あまり前にイラククウェートに侵攻、後に湾岸戦争に発展する。米は日本に目に見える「貢献」を求めてきたのだ。前年にベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終結、地域紛争が多発する時代に移っていた。

 9条のもとで自衛隊を海外に派遣できるか、経済大国・日本にふさわしい国際貢献とは何か――。これが日本政治の主要テーマに躍り出た。

 当初の議論を引っ張ったのは、自民党小沢一郎だ。「小沢調査会」と呼ばれた党組織の93年の答申で、正規の国連軍が創設された際の自衛隊の参加の必要性を強調した。

 小沢は「国連軍に自衛隊が参加しても9条には違反しない」との持論を掲げた。他方、国際貢献論に触発されて読売新聞や経済団体なども次々と改憲案や提言を発表。50年代の復古調は消え、重点は自衛隊の海外派遣に置かれた。

 92年にはPKO協力法が成立。一方、90年代後半から自民党中心の政権は日米ガイドラインの改定や周辺事態法制定と、9条改正には手をつけないまま日米同盟の強化に力点を置いた。背景にはアーミテージら米国の知日派からの圧力があった。そのピークが、小泉純一郎内閣による自衛隊イラク復興支援だ。

 こうした9条の「変質」に危機感を強めたのが大江健三郎鶴見俊輔らの知識人だ。04年に「九条の会」を設立。憲法学者の奥平康弘は発足記念の講演で「9条は日本に住む人々を統合する象徴の意味がある」とその意義を強調。九条の会は、労組などの組織に縛られない市民によって全国に広がっていった。

 ■第3の波(2005年以降) 改憲勢力が3分の2に

 いまの首相・安倍の改憲論の特徴は、米国からの「押しつけ」返上と日米同盟強化という第1と第2の波の時代の一見矛盾する側面をあわせもつことだ。

 「占領時代につくり上げられた憲法などの仕組みを変えていくことによって、真の独立の精神を取り戻すことにつながっていく」(13年4月参院予算委)との考えは前者を、そして9条の解釈変更による集団的自衛権の行使容認は後者の側面を示す。

 岸や中曽根の時代との大きな違いは、07年の国民投票法の制定で改憲の制度的条件が整ったこと、先の参院選で「改憲勢力3分の2」という政治的条件が外形的には整ったことだ。憲法をめぐる状況は、この10年で劇的に変化した。

 国民の意識もまた、変わってきた。

 安倍の復古的側面を支えるのが、「日本会議」などの団体だ。「憲法の前文には日本を日本ならしめてきた価値観が書かれていない。米国が、日本が二度と立ち直ることができないようにと押しつけた憲法だからだ」(ジャーナリスト・桜井よしこ)との考えが、安倍と絶妙に響き合う。

 一方、同盟強化への解釈改憲に対しては、「立憲主義を守れ」と多くの市民が立ち上がった。

 安保法案の審議が続いていた昨年夏、数万人の市民が国会議事堂を何度も取り囲んだ。学生団体「SEALDs(シールズ)」や学者、子育て世代が注目を集めたが、「憲法守れ」と声を上げたのは年齢も性別も職業も様々な「普通の人びと」だった。

 こうした動きの下地をつくったのが「九条の会」の活動であり、福島第一原発事故を受けた「脱原発」など「路上の民主主義」の新たな展開である。

 昨年9月、安保法の成立後に都内での集会でマイクを握った作家の大江健三郎はこう語った。「70年間、憲法の平和と民主主義の中で生きてきた。それがいま危険な転換期にあるということを、私たちは本当に感じ取っているだろうか」

 

 ■首相が9条に踏み込む可能性高い 渡辺治・一橋大名誉教授(憲法

 占領終了後に改憲論を引っ張ったのは、岸信介元首相だ。日本をアジアの大国として復活させたい、そのためには9条を中心に憲法を改正したいとの思いがあった。

 9条2項の戦力不保持は冷戦下の世界では「非常識」な条文と言えるが、国民は再軍備反対や安保闘争などを通じ、自らの手で「日本の常識」に変えていった。

 60年安保闘争は保守政治家に強い衝撃を与えた。戦前回帰の政治では政権は持たないと、池田勇人元首相は経済重視路線への転換を余儀なくされ、改憲論はその後30年ほど影を潜めた。

 冷戦終結後に自衛隊による国際貢献や日米同盟強化が政治のテーマになっても、小沢一郎氏ら歴代自民党首脳は9条の解釈変更を優先し、明文改正は将来の課題と位置づけていた。

 安保闘争の衝撃を実感しない安倍晋三氏は、改憲を現実の政治課題にした初めての首相だ。安全保障関連法を成立させたが、違憲判決が出る可能性はあるし、いまの憲法のもとでは軍法や軍法会議はつくれず、海外に派遣された自衛隊員の法的地位は不安定だ。いばらの道は続くわけで、首相が9条改正に踏み込む可能性は高い。

 ■日本の閉塞感、改憲では解決しない 小熊英二・慶応大教授(歴史社会学

 憲法には二つの側面がある。一つ目は、国家の基本法という法制度的側面。二つ目は、「日本は戦争をする国なのか否か」といったナショナル・アイデンティティーの象徴としての側面だ。

 改憲論は基本的に、後者の側面から出てきている。50年代の改憲論は「敗戦で失われた『国のかたち』を戻したい」というものだった。その後は戦後日本の形が安定し、改憲欲求は収まっていた。だが90年代以降に閉塞(へいそく)感が覆うと、再び「『国のかたち』を変えたい」という改憲欲求が出てきた。

 冷戦後には「国際環境の変化に応じて基本法を整えよう」といった法制度的な改憲論も存在したが主流ではない。実際には、ほとんど法律改正で対応できたからだ。

 世論調査では、改憲を支持する回答も多い。だがこれは、「現状の日本に不満だ」という漠然とした感情の表現だ。「では9条を変えますか」といった具体的なことを聞くと、「違う」という回答が多くなる。現状に不満なのは共通しているが、どこを変えたらいいかの合意はないからだ。こういう不満は地道に政策で対応すべきもので、合意のない状態で国の基本法を改変しても解決しない。

 

 ◆この特集は、編集委員・国分高史、後藤遼太が担当しました。
    −−「日本国憲法、70年の議論」、『朝日新聞』2016年11月03日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12639793.html





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