覚え書:「耕論 トランプ氏とつき合う イアン・ブレマーさん、竹内行夫さん、古城佳子さん」、『朝日新聞』2016年11月19日(土)付。

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耕論 トランプ氏とつき合う イアン・ブレマーさん、竹内行夫さん、古城佳子さん
2016年11月19日

 神格化された君主から象徴的な存在へ。1945年の敗戦から、46年の新憲法の公布までの期間は、皇室の存続が危ぶまれ、天皇に近い立場の人たちから退位論が語られた。天皇と民心との距離をどう埋めるか、模索された時期でもあった。

 ■背景に戦争責任問題

 46年2月27日の枢密院本会議。首相や大臣、親王らが出席する天皇の最高諮問機関で、昭和天皇の末弟・三笠宮が立って、手元の紙片を読み上げた。

 「現在天皇の問題について、また皇族の問題について、種々の論議が行われている。今にして政府が断然たる処置を執られなければ悔いを後に残すおそれありと思う」

 発言は、遠回しに天皇の進退を問うものだった。厚生相として列席した芦田均は、日記に「陛下の今日のご様子はいまだかつてない蒼白(そうはく)な、神経質なものであった」と書いた。

 背景にあったのは、天皇の戦争責任問題だった。

 「読売報知」紙が同日、「宮内省某高官」(後に皇族の東久邇宮稔彦〈ひがしくにのみやなるひこ〉・元首相と判明)の話として、天皇が戦争責任を引き受けて退位する計画があり、多くの皇族方も賛成だと報じた。

 退位論の発信者は、皇族や側近、政治家ら、体制内で指導的立場にある論者たち。「天皇制を守るためにも退位が必要」と考えた。

 同年1月に東京裁判極東国際軍事裁判)の設置を定めた条例が発効。連合国軍総司令部(GHQ)による戦争指導者らの訴追がすでに具体化していた。

 昭和天皇の退位をめぐっては、開戦直前まで首相だった近衛文麿(このえふみまろ)が早くも終戦前の45年1月、「降伏した場合は天皇が出家して仁和寺(にんなじ)に入る」との構想を語っていた。「天皇家の密使たち」(高橋紘、鈴木邦彦著)によると、退位して「裕仁(ゆうにん)法皇」となれば戦争責任も追及されないと期待した。

 天皇自身も揺れた。

 降伏直後の同年8月、側近の木戸幸一内大臣に「自分が一人引き受けて退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」と相談した。東京裁判で死刑判決を受けたA級戦犯7人が48年12月23日に処刑された際も、三谷隆信侍従長に「私は辞めたいと思う」ともらした、との逸話が伝わる。

 ■訴追反対、マッカーサーの思惑

 GHQのマッカーサー最高司令官は昭和天皇を在位させて日本統治に利用しようと考えていた。

 米大使館で天皇を迎え、初の会見を果たしたのは45年9月27日。その後、軍事秘書フェラーズから、天皇を無罪とすべきだとする報告書やメモを受け取った。

 「天皇戦争犯罪に問われれば、政府の機構は崩壊し、大規模な暴動が避けられないであろう。そうなれば、大規模な派遣軍と数千人の行政官が必要となろう」との内容だった。

 翌46年の元日、天皇詔書を発表した。現人神(あらひとがみ)ではないことを明確にした「人間宣言」だ。ソ連やオランダ、オーストラリアが天皇訴追を主張するなか、マッカーサーは米陸軍参謀総長アイゼンハワー(のちの米大統領)に「天皇免責が得策」との機密電を送り、翌2月には米統合参謀本部から天皇免訴が伝えられた。

 一方で、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相とも面会。「できるだけ早く戦争放棄を世界に声明し、日本国民はもう戦争をしないと決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとすると憲法に明記する以外に、天皇制を続ける方法はないのではないか」という点で一致したという。

 マッカーサーは2月、GHQに命じて天皇制存続と戦争放棄を盛り込んだ新憲法案を9日間で作らせ、日本政府に示した。日本政府が象徴天皇制戦争放棄を規定した憲法改正草案要綱を閣議決定したのは3月6日だ。宮内庁がまとめた「昭和天皇実録」によると、天皇はこの日夜、木下道雄侍従次長に、現状では退位の意思はないとの趣旨を伝えた。

 その2週間後、マッカーサー天皇訴追反対を米国本国に報告したことが、フェラーズから宮内省(現宮内庁)御用掛に内々に伝えられた。天皇は戦犯訴追の最大の危機を脱した。

 ■外国は忘れぬ「過去」

 昭和天皇が退位しなかったことは何をもたらしたのか。

 「昭和天皇退位論のゆくえ」著者の冨永望・京都大大学文書館助教は「52年発効のサンフランシスコ講和条約以降は、退位論がしだいに下火になり、戦争責任の議論も国内ではうやむやになった」と指摘する。

 しかし、外国は忘れていなかった。天皇が71年に訪欧した際、戦争責任の問題を厳しく指摘された。ベルギーでは車に卵、オランダでは魔法瓶が投げられた。英国では歓迎夕食会でエリザベス女王が過去の戦争に触れたのに対し、天皇は訪英の思い出を語るにとどまり、批判を浴びた。

 昭和天皇は75年の訪米の際、「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」と述べ、初めて「過去」に触れた。89年に即位した天皇陛下も海外へ慰霊の旅を重ね、戦争に対する反省の念を示してきた。

 冨永氏は語る。「昭和天皇が退位しなかったことが、天皇が外国の元首と会見する場で戦争について何か言わなければならない前例を作ったとも言える」

 ■もう一つの「玉音」放送

 戦後70年の昨年8月、宮内庁が古いレコード盤に録音された、昭和天皇の二つの肉声を公開した。

 一つは、敗戦を国民に伝えた45年8月15日の「玉音放送」。もう一つが9カ月後の46年5月24日にラジオで流された「食糧問題に関するお言葉」だ。

 厳しい食糧事情を説き、国民に理解を求める内容の「もう一つの玉音」は、敗戦と同様、天皇にとって危機的な状況下で発せられた。

 放送の3週間前、5月1日。東京の宮城(きゅうじょう)(現在の皇居)前広場には50万人の群衆が集まった。戦時中は禁じられた労働者の集会、メーデーの復活だった。

 今年102歳になった杉浦正男さん=千葉県船橋市=は、その人波にいた。労働運動に関わり投獄され、戦後に釈放された杉浦さんは、宮城前に赤旗が翻る光景に、「自由にもの申せる時代が来た」と実感した。

 「戦争犯罪人を根こそぎ追放しろ」。集会が掲げた要求の一つは、政治指導者の追及だった。日本を占領した連合国がA級戦犯を裁く東京裁判の開廷が5月3日に迫っていた。会場では「天皇打倒」も語られた。

 「働けるだけ喰(くわ)せろ」。最も切実な要求が食糧難への対応だった。配給米の遅配が続き、人々は飢え、心底怒っていた。その矛先も天皇に向かっていく。

 5月12日には、東京都世田谷区の「米よこせ区民大会」の参加者が赤旗を掲げて坂下門に集まり、宮城に入る。「昭和天皇実録」はこう記す。「(参加者は)宮内省当直主管に決議文を手交し、強談のうえ庁舎地下食堂の調理所に侵入し、食料等を見て廻(まわ)る」

 手渡された決議文は天皇に対応を迫る内容だった。「天皇よ、人間であるならば人民大衆の声をきけ。即時宮城内の隠匿米を人民大衆に開放せよ」

 天皇はこの年の1月1日、いわゆる「人間宣言」で、自らの神格化を否定していた。のちに労組の全国組織である「産別会議」の事務局長を務めた杉浦さんは「敗戦、占領、人間宣言を経て天皇の権威は落ちていた。そこに飢えという怒りが燃料となってデモの火が付いた」とみる。

 更に5月19日に宮城前で開かれた「食糧メーデー」には25万人が参加。会場では、天皇詔書を風刺して「朕(ちん)はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」と書いたプラカードも登場した。掲げた松島松太郎氏(故人)は後日、今はない「不敬罪」で起訴される。「プラカード事件」として戦後史に刻まれる事件だ。

 民主化のために労働運動を解禁した連合国軍総司令部(GHQ)だったが、デモの勢いに、日本が共産化する危機感を抱く。翌20日、司令官マッカーサーは「暴徒によるデモと混乱」をやめるよう警告を出す。占領軍が抱える食糧の放出もした。社会が波立つなか、発せられたのが24日の放送だった。

 「二つの玉音」は現在、宮内庁のホームページから聞くことができる。

 敗戦の放送は文語調で、結びの言葉は「爾(ナンジ)臣民其レ克(ヨ)ク朕カ意ヲ体(タイ)セヨ」と命令形だ。一方の食糧難の放送は、その年の11月に公布される新憲法の象徴天皇像を先取りするように口語調でやわらかい。最後は「(国民が)祖国再建の道をふみ進むことを切望し、かつ、これを期待する」で終わっている。

 ■戦後巡幸で慰問と激励 「あっ、そう」流行語に

 46年、昭和天皇は「戦後巡幸」と呼ばれる全国行脚を始め、54年までに、米国の施政下にあった沖縄を除く46都道府県を巡った。

 戦前との大きな違いは、一般国民と会話する機会を積極的に設けた点だった。仰ぎ見ていた存在が身近となり、天皇は各地で大歓迎を受けるようになる。「あっ、そう」という相づちは流行語になった。

 こうした効果は、天皇側だけではなく、占領を円滑に進めたいGHQも期待したものだった。

 「昭和天皇実録」によると、巡幸が始まる前月の46年1月、マッカーサー側の「天皇は親しく国民に接し、国民の誇りと愛国心とを鼓舞激励されるべきである」という意向が、天皇に伝えられた。

 47年に訪れた岩手県釜石市では、艦砲射撃で破壊された製鉄所の復旧状況を視察。戦災者を見舞った。当時、製鉄所のタイピストだった千田ハルさん(92)は天皇の歩く姿に「やっぱり人間なんだ」と実感した。

 「戦後史のなかの象徴天皇制」の共著がある瀬畑源(はじめ)・長野県短期大助教(日本現代史)は、巡幸は主に「戦災慰問」と「復興鼓舞」という形をとり、「天皇が各地の『草の根の支持』を再獲得するプロセスとなった」とみる。

 現在の天皇陛下も災害の被災地を巡り、被災者を慰問し、復興状況を視察する。退位の意向をにじませた今年8月のビデオメッセージでは、日本各地への旅が「天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と語った。

 ◆北野隆一、西本秀、東郷隆が担当しました。次回は12月に「戦後民主主義」を特集する予定です。
    −−「耕論 トランプ氏とつき合う イアン・ブレマーさん、竹内行夫さん、古城佳子さん」、『朝日新聞』2016年11月19日(土)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12665305.html





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