日記:バタイユの人間論

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 自分を人間と定義づける、ひいては、人間であると判定する時の、人間の判断のありかたは、まったくあてにならないものなのである。ある時には、問題は内容−−いわば人間であるという事実の宿命性や内実−−にあり、ある時には、その事実の肉体的な形や外在的なしるしにあるのだ。肉体的な相貌に具わる徴候としての価値は、異論の余地のないものでもあろうが、ただ外面性の次元においてでしかない。具体的な真実は感じられないものだし、人間であるという感情は、敵意を孕む世界から来たそのとらえどころのない得体の知れぬ外見と、とても一致するものではない。
 いったいその感情とは、なにを意味するものか。
 わたしたちは他のひとびととその感情をわかち合っている、と考えている。それは、人間であるという共通の感情である。しかしかの他のひとたちに敵意を抱くか、かれらの敵意をうけるかする時、わたしたちはたちまち、かれらとはその感情を共有することをやめる。それは当然なことである。わたしたちは、憎まれているか憎んでいるひとたちに対して、同類であると感じることができない。なんらかの初歩的な相違が、わたしたちの憎しみか相手の憎しみを、説明づけるものとならなければならない。いっしょであれば−−「いっしょである」ありかたがどんなであろうと−−わたしたちはたがいに人間的であると考えている。しかしそれは、単にわたしたちが同類であり、他のいかなる存在も除外して、わたしたちが全般的に、存在のあらゆる真理と現実とをわがものとしているということを意味している。わたしたちと、わたしたちに結びついているものとは、全体性でいまあるもののすべてである一世界を、形づくっているのである。わたしたちと結びついていないものは、真実には存在していないものなのだ。それでいながら、自分を超越しているなんらかの要素を考える婆には、わたしたちは、たちまちそれと結びつき、相互性のたわむれを通じて、それはわたしたちに固有なものとしてある。わたしたちを超越している神は、わたしたちの神である……。別様に言えば、人間であるという感情は、普遍的であるという感情なのである。他の存在たちが、人間の外観をまといながら、しかもわたしたちがいまあるものに無縁だと思われる時、すぐにわたしたちは、自分のうちにあって普遍性であり、必然的にわたしたちの普遍性であるあの人類から、それを切り捨ててしまう。しかし、人間的であるためには不可欠なその普遍的な価値に、人間的なものではなく是非ないものとして、わたしたちを超越しているなんらかの要素が不足していると思われる場合には、たとえそのためにその要素に自分を従属させることになるとしても、すみやかになんらかの形で、それをわがものとせずにはいられないのだ。じじつ宇宙のなかで人間存在は、宇宙そのものでなくてはならない。それが、わたしは人間である、というあの考えのうちに、わたしたちすべてが前提として含めているものなのである。
    −−バタイユ(山本功訳)「人類」、『戦争/政治/実存 ジョルジュ・バタイユ著作集14』二見書房、1972年、8587頁。

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