覚え書:「真珠湾攻撃、そのとき日本は 泥沼の日中戦、対米開戦に賭け」、『朝日新聞』2016年12月26日(月)付。

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真珠湾攻撃、そのとき日本は 泥沼の日中戦、対米開戦に賭け
2016年12月26日

日米開戦への道
 
 太平洋戦争の開戦を象徴するハワイ・真珠湾を、27日、日米両首脳が初めてそろって訪れる。真珠湾攻撃は、日本にとっては、泥沼化した日中戦争を打開する賭けであり、米国にとっては、国民心理を激変させた「だまし討ち」だった。なぜ日米は戦争に突入したのか。真珠湾はその後の世界をどう変えたのか。幾層にも重なる歴史を読みとく。

 中国からの撤兵要求にどう対処するか。日米対立の根本には、日本の中国侵略があった。

 戦争回避のための日米交渉が続く1941年10月14日午前、首相の近衛文麿は、主戦論者の陸相東条英機を官邸に呼んだ。

 近衛「支那事変(日中戦争)に決着がついていない今日、さらに前途の見通しのつかない大戦争に入ることは何としても同意し難い。この際、中国から撤兵する形をつくって日米戦争の危機を救うべきだ」

 東条「到底同意できない」「これは性格の相違ですなあ」(近衛「平和への努力」=要旨)

 続く閣議でも東条は力説した。

 「撤兵問題は心臓だ。……米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危(あやう)くする、さらに朝鮮統治も危くなる」(稲葉正夫ほか編「太平洋戦争への道 別巻」)

 東条は近衛の説得をはねつけた。近衛内閣は総辞職し、東条が組閣した。

 31年に満州事変を起こした日本は翌年、傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国。37年の北京郊外、盧溝橋での武力衝突をきっかけに中国との全面戦争に突入した。

 このとき、首相だった近衛は、戦争の拡大を食い止めることに失敗していた。

 中国との戦争は、中国側の抵抗でやがて行き詰まる。日本は、資源獲得のため、英国やオランダが植民地をもつ東南アジアへの進出を国策にすえた。

 41年7月、日本軍は、南進の足がかりとして仏領インドシナの南部(現在のベトナム南部)に進駐。米国はただちに日本への石油輸出を全面禁止した。

 対米交渉で日本は中国からの撤兵を決断できなかった。中国との戦争継続には東南アジアの石油が必要だった。石油の備蓄があるうちに米英と開戦すべきだとの声が高まった。

 11月5日、米英オランダとの戦争を決意し、12月初めの武力発動に向けて準備する、という方針が御前会議で決まった。

 11月26日、米国務長官ハルは日本側に覚書(ハル・ノート)を手渡した。それは中国、インドシナからの一切の兵力、警察力の撤収を改めて求めていた。

 同日、択捉(えとろふ)島単冠(ひとかっぷ)湾に集結する日本海軍の機動部隊が真珠湾に向け出港した。

 ■短期戦へ奇襲、士気そぐ狙い

 ハワイ・オアフ島、12月7日(現地時間)。穏やかな日曜日の朝の空に突然、日本海軍機動部隊の戦闘機などが現れた。同島の真珠湾に迫った第1次攻撃隊長の淵田美津雄は、突撃指示後も米側からの攻撃がないため、「奇襲に成功」を意味する暗号電文「トラトラトラ」を発した。各機が同湾に停泊中の米太平洋艦隊の艦船などに襲いかかった。

 いつも通り、軍旗の掲揚や朝食の支度を進めていた米軍の将兵たち。日本軍機の機影を味方機と思った者もいたが、艦船などが次々に襲われ、「これは演習ではない」と大混乱に陥った。

 対米戦で日本海軍は、日本近海で艦隊を迎え撃つ作戦を考えていた。だが、連合艦隊司令長官山本五十六は、日米の生産力の差や石油などの資源確保の難しさから、米艦隊が攻めてくるのを待つ長期戦を戦うのは厳しいと見ていた。近衛文麿に米国と戦争になった場合の見通しについて「是非やれといはれれば初め半年か一年の間は随分暴れて御覧(ごらん)に入れる。然(しかし)ながら二年三年となれば全く確信は持てぬ」と言っていた(近衛「平和への努力」)。

 そこで山本が考えたのがハワイの米太平洋艦隊への奇襲だった。航空機を活用して開戦直後に米艦隊主力を徹底的にたたき、米軍や米国民の士気をそいで有利に戦争を進めようとした。

 奇襲攻撃にあたって山本は、「開戦通告」が攻撃前に米側に届くかどうかを気にしたという。しかし、予定では攻撃30分前には通告するはずだったが、在米日本大使館が日本からの暗号を解読して通告したのは、真珠湾への攻撃開始から約1時間後だった。

 日本軍の奇襲で、米側は戦艦アリゾナなど21隻が沈没や大破するなどし、将兵のほか民間人も含めて約2400人が亡くなった。

 奇襲攻撃成功の報に日本中がわいた。漫談や「ラジオ小説」で活躍していた徳川夢声は「日本海軍は魔法を使ったとしか思えない」と日記に記した(「夢声戦争日記」)。日本軍は真珠湾攻撃の約1時間前には英領のマレー半島に陸軍が上陸作戦を実施した。

 ただ、山本が狙ったように米国民の士気をそぐことはできなかった。日本生まれで、戦後に駐日米国大使を務めたライシャワーは著書で、「日本はアメリカ人の心理を読みちがえるという大ヘマをおかしたのではないか、と思いました」と振り返っている(「日本への自叙伝」)。

 ■米「だまし討ち」戦意に火

 「昨日12月7日は、不名誉の日として歴史に長く記憶されるだろう」

 ルーズベルト米大統領は、一夜明けた米東部時間8日、連邦議会で開戦教書演説を行った。「不名誉の日」という表現は、演説の推敲(すいこう)段階で大統領自身が付け加えた。

 卑劣なだまし討ち。それが、米国人が受けたイメージだった。欧州の戦争へ巻き込まれることを恐れていた米国の孤立主義は、一瞬で消え去ってしまった。

 戦争中、「真珠湾を忘れるな(リメンバー・パールハーバー)」は米国民を戦争遂行に動員するスローガンとなった。「日本本土が焼夷(しょうい)弾、原爆によって焦土となり、ようやくそのスローガンはやんだのである」(歴史家のジョン・ダワー「戦争の文化」)。

 第2次世界大戦中から、米国では真珠湾攻撃をなぜ防げなかったかが、大きな問題となった。46年までに行政府と立法府により幾度も調査が行われた。ルーズベルト政権の怠慢も糾弾されたが、今日では、端緒となる断片情報をつかみながらも、全体を総合して判断できなかった情報活動の弱さが大きな原因だったと指摘されている。

 真珠湾のショックは根深かった。広島、長崎への原爆投下直後には、原爆は真珠湾への報復だと位置づけられた。冷戦時代になると、「真珠湾を忘れるな」は「奇襲に備えろ」を意味する政治シンボルとして、軍備拡大に利用された。真珠湾は、1回の歴史的事象にとどまらなかった。

 ひとつの転機が訪れた。冷戦終結後の91年12月、真珠湾50周年式典で、ブッシュ大統領(父)は「もう罪のなすり合いをすべき時ではない。第2次大戦は終わった。すでに歴史だ」と和解を呼びかけた。日本も外相談話で「我が国の過去の行為に対し深く反省します」と表明した。真珠湾攻撃は過去になったかと思われた。

 2001年9月、ハイジャックされた旅客機が米国の中枢を襲った。同時多発テロである。翌日、米紙の多くが1面見出しで「不名誉の日」と打った。ブッシュ大統領(息子)は、テロを「21世紀の真珠湾」と位置づけた。テロ犯による旅客機を使った攻撃はカミカゼと呼ばれた。日米戦争を想起させるイメージが米メディアにあふれ、人々の怒りをかき立てた。戦火はイラク戦争へと続いた。

 米国にとって真珠湾とは、現代でもなおうずく、深いトラウマなのだ。

 ◇文中は敬称略。上丸洋一、藤井裕介、藤原秀人、三浦俊章が担当しました。
    −−「真珠湾攻撃、そのとき日本は 泥沼の日中戦、対米開戦に賭け」、『朝日新聞』2016年12月26日(月)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12723423.html





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