覚え書:「終わりと始まり イラク戦争から14年 世界変えた判断の誤り 池澤夏樹」、『朝日新聞』2017年04月05日(水)付夕刊。
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終わりと始まり イラク戦争から14年 世界変えた判断の誤り 池澤夏樹
2017年4月5日
「イスラム国」(IS)の拠点だったモスルが七月までには政府軍によって解放されるらしい。抵抗する勢力は今は五百名ほどまで減ったという。
と書くぼくは「イスラム国」の壊滅を望んでいる。彼らはあまりに暴力的に信仰を政治に利用した。そのふるまいはムスリムの模範と讃(たた)えられるものではなかった。テロリズムで世界を攪乱(かくらん)したけれど、新しい秩序は生まなかった。
先日、三月二十日はイラク戦争が始まって十四年目の日だったが、これを記念日とは呼べない。結果が最悪だったのだ。あるとされた大量破壊兵器がなかった以上、あの戦争には大義はなく、イラクの社会を破壊したのみ。そこに生まれた力の空白からやがてイスラム国が台頭した。戦争は結局、暴力の時代を招来しただけだった。
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二〇〇二年の十一月一日、開戦の五カ月と二十日前、ぼくはバグダッドからモスルに入った。メソポタミア文明の遺跡を見る旅行だったが、しかしサダム・フセイン支配下のイラクの社会をつぶさに見る旅でもあった。
それがいかにも住みやすそうに見えたのだ。戦争の脅威が迫っているのに人々の表情は明るく、食べるものは豊富で、ぜんたいにのんびりしていた。旅人は行く先々で歓迎された。独裁者と秘密警察の国家のはずが、外国人ジャーナリストへの監視などまるでいい加減。
モスルは気持ちのいい町だった。近くにニムルドという大きな遺跡があって、たまたま発掘されたばかりの美しい有翼牛人像(ラマッスー)を見ることができた。町の一角で子供たちが歌っていたのはフランス民謡の「フレール・ジャック」だった(日本語にもいくつもの歌詞がある)。遊園地に集う子たちは元気いっぱいの笑顔だった。
ぼくは帰国してすぐ反戦を訴えた。あの子供たちの上に爆弾を落としてはいけないと思ったのだ。大急ぎで本を出し、各地の講演会で話し、テレビのワイドショーにまで出た。
世界中で開戦に反対する大規模なデモが行われた(ニューヨークで五十万、ロンドンで七十五万、東京で四万)。
しかし戦争は止められなかった。
半年後、ぼくはモスルをはじめ自分が訪れて心地よい時間を過ごした土地の名を激戦地として一つまた一つと知らされることになる。
ずいぶんたってから、イラクの旅のガイドをしてくれて親しい友人になったレイスから、なんとかアンマンに逃れたという連絡が入った。しかし陽気な美青年だった彼の弟は戦闘に巻き込まれて亡くなったという。この弟の笑顔をぼくはよく覚えている。
レイスは真の知識人で、平和な時代ならば社会の要職にあるべき人物だった。イランとの戦いと湾岸戦争で生涯を棒に振ったが、自分の子の世代はもっといい時代になるはずと言っていた。その後、彼から連絡はない。
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去年(二〇一六年)、イギリスでイラク戦争に参加を決めたブレア政権の判断を検証するチルコット報告書が発表された。『戦争と平和』の四倍という語数を費やしての綿密なもので、結論は開戦は誤りということだった。あの時点で戦争をはじめる理由はなかった。国連による大量破壊兵器の査察の結果を待っても何の危険もなかった。
これを聞いてブレアは「結果論」だと言ったが、それは違う。あれは明らかにブッシュ・ジュニアの判断の誤りであり、尻馬に乗ったブレアの誤りだった。ブッシュは任期の最後に「大統領の職にあった中で、最大の痛恨事はイラクの情報の誤りだった」と言った。実際には情報ではなく判断の誤りだ。
それでも彼は反省したからまだまし。開戦の日に「アメリカの武力行使を理解し、支持します」という声明を出した小泉元首相はこの件について今もって何も言っていない。外務省もこれには触れない。日本の官僚は過去を検証せず、責任を取らず、文書を公開せず、重大な局面で記録さえ残さない。あるいはこっそり破棄する。
冷戦の後の安定は9・11で崩れた。イラク開戦がそれを拡大した。
イギリスのジャーナリスト、ピーター・オボーンはこの戦争の失敗で「エスタブリッシュメントへの信頼感がガラガラと崩れた」と言った。その結末がイギリスのEU離脱であり、アメリカではトランプというトンデモ大統領の登場ではなかったか。国際政治はかくも大きく崩れるものであるか。
モスルで会った大学生は、できればコンピュータ・サイエンスに進みたいとぼくに言った。経済封鎖で十五年停滞していたイラクではむずかしいことだったが、しかし希望はあったはず。
彼、ラヤン・アブドゥル・ラタク(私書箱1977)は今、どこで何をしているのだろう? あの時に二十歳とすれば、今はもう三十四歳になっている。
−−「終わりと始まり イラク戦争から14年 世界変えた判断の誤り 池澤夏樹」、『朝日新聞』2017年04月05日(水)付夕刊。
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http://www.asahi.com/articles/DA3S12878339.html