覚え書:「日曜に想う 4拍子のワルツで踊る勅語 編集委員・大野博人」、『朝日新聞』2017年04月23日(日)付。

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日曜に想う 4拍子のワルツで踊る勅語 編集委員・大野博人
2017年4月23日

「ダンス」 絵・皆川明
 教育勅語には「いいことも」書いてある、という声がある。天皇や国家に身を捧げよというこわもてのメッセージ部分はさておき、ということか。だが、それをのぞけば、いいも悪いも、そこにあるのは道徳の項目程度のことばかりだ。

 親を大切に、兄弟姉妹も夫婦も仲良く、友情は大事に……。うんざりするほどありふれた徳の続き目。これを聞かされて「伴侶やきょうだい、友人とは仲良くしなきゃいけないんだ」とあらためて目覚める人がいるのだろうか。

 道徳や倫理とはお題目のずっと先、現実と価値観とがぶつかるところで必要とされる。どんな親でも愛せるか、友人を信じるとはどういうことか――。

 こうした徳目で日本を世界から尊敬される「道義国家」にするのが、勅語の考えの核だと共感を示す大臣がいた。しかし、こんな徳目を掲げたからといって外国の人たちが感心するとは考えにくい。

 そもそもこれらは儒教的道徳と重なるとも言われるし、古今東西、多くの人たちが悩み抜いてきたテーマでもある。

 親子の情の深さや屈折を描いた傑作戯曲「リア王」の作者は英国のシェークスピアだ。夫婦愛の気高さを高らかに歌い上げた歌劇「フィデリオ」はドイツのベートーベンの代表作のひとつである。

 友情のかけがえのなさを考えさせる名作に太宰治の「走れメロス」がある。これは日本文学だ。でも、日本が舞台ではない。ドイツの詩人シラーの詩や古代ギリシャの物語の翻案だという。

 とても日本の専売特許とは言いがたいような徳目で外国から尊敬を集めようなんて、虫がよすぎる。

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 「政治のうそについての小ガイド」という本がある。著者はフランスの気鋭の政治学者トマ・ゲノレ氏。うそをごまかしたり、空っぽの主張にもったいをつけたりする政治家の弁論術を紹介し、それぞれに練習問題までつけていて面白い。

 そのひとつに「4拍子のワルツ」と名付けられたやり方がある。勅語をめぐる政治的言説も、このうさんくさいワルツで踊っているように見える。練習問題として読み解いてみた。

 1拍目は「挑発」。勅語はすばらしい、再評価するべきだと、耳目を集めることをあえて言う。

 2拍目は「釈明」。批判を浴びると誤解だと反論する。別に教育の唯一の根本理念として復活させろと言っているわけではない云々(うんぬん)。

 3拍目は「犠牲者のふり」。メディアや野党は、戦前に戻そうとする思想だなんて、話をねじ曲げる。印象操作で私たちを悪者にしている。

 4拍目は「勝利」。結局、教育勅語は授業で使えると閣議決定し、別に幼稚園の朝礼で朗読してもかまわないのだ、と言い放つ。1拍目の「挑発」で狙ったとおりの政治的な成果を収める。

 勅語の徳目は、踏み込んだ省察もなく実質的な中身がない、いわば空箱。にもかかわらず、あやしい4拍子のワルツに乗せてまでよみがえらせようとするのはなぜか。まさに空箱だからではないか。時の権力者にとって都合がいい解釈をどのようにも盛り込める。

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 たとえば「夫婦仲むつまじく」という徳目に異を唱える人は多くないかもしれない。だが、そこに封建的な夫唱婦随を称揚する考え方を込めることもできるだろう。「世のためになる仕事」をするといっても、どんな「世」かによる。社会が非人道性を帯びて暴走することは歴史上しばしばおきたことだ。

 日本が近代国家へと生まれ変わろうとするときに、欧州のキリスト教のように支配的な価値観が必要とされた。当時の指導者たちが持ち出したのが天皇制だという。

 勅語はその聖典と言えるかもしれない。空箱を聖典にすることで、政治権力は思い通りの道徳観を人々に有無を言わさず押しつけることができた。だから勅語は、今でも権力を持つ者に魅力的な仕組みと映るのではないか。

 4拍子の変なワルツに誘われて踊りだすのはやめよう。必ずずっこけるから。
    −−「日曜に想う 4拍子のワルツで踊る勅語 編集委員・大野博人」、『朝日新聞』2017年04月23日(日)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12905725.html





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