覚え書:「終わりと始まり ビッグデータとAI 思想は力を失うのか 池澤夏樹」、『朝日新聞』2017年05月10日(水)付。

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終わりと始まり ビッグデータとAI 思想は力を失うのか 池澤夏樹
2017年5月10日

 小さなプロダクションに勤める友人が嘆く――どんな企画もみなビッグデータにつぶされる、と。「それは売れない」とビッグデータが言っている、で終わり。人々の心の奥で出番を待つ思いへの回路をビッグデータが断ち切る。

 これはほんの入口(いりぐち)にすぎない。

 思想はやがて社会の動向を左右する力を失うのではないか、とぼくは悲観的なことを考えている。

 以下は未来への外挿、一つのSFの案と思っていただきたい。

     *

 無力を導くのは情報革命だ。

 昔々、ホモ・サピエンスは抽象思考の能力を得て精神革命を起こし、他のホモ属に差を付けた。農業革命によって生産能力を飛躍的に高めた。科学技術革命によって今見るような社会を築いた。

 その先で待っていたのが情報革命。

 コンピューターの発明だけならば本質的な変革にはならなかっただろう。これがインターネットと組み合わされ、更に近年に至って通信のコスト、記憶装置のコストが何桁も低くなった。その結果、社会の基本構造が根底から変わりつつある。

 社会は人間同士の関係から成る。はじめは対面による個体識別、言語を得てからは噂(うわさ)が加わり(第三者の誕生)、官僚機構による統治が広まり、それに抗する個人の思想が書物を通じて社会ぜんたいを動かすようになった。

 つまり、これまでは交友、言語、制度、思想などが人間と人間をつないできた。

 資本主義になってから金銭の媒介が加わった。今では人間はまずもって消費者である。あなたは懐妊以前から死去の後まで広告に包囲されている。

 更に今や個人の消費行動は、おにぎり一個の買い物、電車に乗った一区間、すべてネットを通じてXXに報告される。思想信条、その時々の思いはSNSから抽出される。

 ぼくが危惧しているのはオーウェルが書いた『一九八四年』やブラッドベリの『華氏451度』のような強権による思想統制ではない。それならばあの主人公たちのように抵抗もできる。むしろP・K・ディックが描いた世界だ。

 XXにとっては一個人の思想などどうでもいいのだ。そんなものは恐(こわ)くない。今や恐いものは何もない。

 個人のふるまいすべてがネットを通じて集積され、集計され、解析され、保存される。これがビッグデータである。最も大事な解析を担うのは人工知能(AI)。

 知能という言葉に何か人間的なものを期待してはいけない。コンピューターが得意とするのは単純な計算を高速で大量に行うことであり、囲碁などではこの能力が有利に働く。

 ビッグデータからのパターンの読み出しこそはAIの活躍の場だ。

 ビッグデータには社会の現況がそのまま入っている。これが広告に応用される。つまりXXはこれに基づいて社会の舵(かじ)を取ることができる。

     *

 しばらく前、XXはアメリカ国民の思いのすべてをビッグデータから引き出した(としよう)。世論調査と違って全数が対象だから誤差は皆無。それに沿って広告戦略を組み立てる。結果において得票数が半分を超えればいいのだ。人々の欲望を読み解き、共感と反発が拮抗(きっこう)するぎりぎりのポイントを狙って政策を設計する。

 広告業者は売れと言われた商品の価値を問わない。それは職責の内に入っていないし、この業界に倫理はない。欠陥車であるか否かは契約の外。

 車ならば業界の規制があるが、大統領選挙には公認の衝突安全テストはない。やりたい放題。アメリカ国民全員の欲望を解析したビッグデータが戦略の基盤を作った(のではないか)。

 結果、有権者はトランプというとんでもない欠陥車を買った。この場合、それで戦争になろうが恐慌が来ようがそれは投票した人々の責任、と言えるか? 普通選挙による民主主義は意味を失ったかもしれない。

 その瞬間々々の国民の感情がことを決める(感情には思索の過程は痕跡としても残らない)。しかしその感情はXXの操作の対象である。これは究極の平等社会だろうか。

 ここまでぼくはビッグデータの主体をXXと書いてきた。その正体は何だろう? アメリカならばFBIか、しかし彼らはトランプと敵対している。ではAGFA(アップル・グーグル・フェイスブック・アマゾン)か? 今や国家のはるか上空にある超企業?

 わからないのだ。XX自身にも自分の正体はわかっていない。生まれたばかりの怪物だから。

 思想はファッションでしかない。コンピューターとネットワークに騎乗したホモ・サピエンスは何か別のモノに変身しつつ逸走している。手の中に手綱はない。ただしがみつくばかり。
    −−「終わりと始まり ビッグデータとAI 思想は力を失うのか 池澤夏樹」、『朝日新聞』2017年05月10日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12930760.html


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