日記:塩が味を失って、あまいものとなれば、外にすてられて人にふまれるだけである。

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日本の社会とキリスト教との間に距離が、いいかえれば、断絶があっということが、キリスト教を社会のなかに定着させなかった、というマイナスを生み出したことは否定できないが、マイナスだけではなかった。というのは、距離があったからこそキリスト教は、日本社会にはらまれた問題を問題として指摘し、批判することもできたのである。逆にいえば、大正以降、キリスト教がしだいに社会的影響力を失っていった原因の一つは、キリスト教会が日本の社会と、癒着していき、角のとれた、したがってそれだけ物わかりのよいキリスト教となっていったことにある、といってよいであろう。
 その意味で、「福音の土着化」は両刃の剣である。うかうか土着化すれば、それだけ味を失った塩となり終わる危険がある。そうかといって、社会から超絶していたのでは、その本来の使命を全うすることができない。一〇〇年の歴史をかえりみて、キリスト教が日本の社会を生かすものとして働いた場面は、日本の腐敗を消毒し、傷をいやす「地の塩」として働いた場であったといってよいであろう。キリスト教の女子教育も、社会事業も、社会運動も、そうであったし、現在でも靖国神社の国家護持反対やベトナム戦争への批判などはそういう意味をもっている。塩が味を失って、あまいものとなれば、外にすてられて人にふまれるだけである。日本社会の根源的問題性はなおその解明と解決をまっている。
(出典)隅谷三喜男『日本の社会思想−近代化とキリスト教東京大学出版会、1968年、279−280頁。




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