覚え書:「ニッポンの宿題 靖国と戦没者追悼 古賀誠さん、三土修平さん」、『朝日新聞』2017年05月27日(土)付。

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ニッポンの宿題 靖国戦没者追悼 古賀誠さん、三土修平さん
2017年5月27日 


古賀誠さん
写真・図版
 国の戦没者追悼施設については、戦後、様々な議論が行われてきました。戦前は国の施設だった靖国神社は、戦後、民間の宗教法人になり、位置づけを巡る論争が続いています。新たな追悼施設を整備すべきだという意見もあります。どう考えたらよいのでしょうか。

 

 ■《なぜ》合祀でこじれ、議論先送り 古賀誠さん(元自民党幹事長)

 今の靖国神社は、多くの国民がわだかまりなく参拝できる施設にはなっていません。これでは、戦死した方々にとって、自分の死が無駄ではなかった、今日の平和につながっているんだと思える状況とは言いがたい。赤紙一枚で召集され、戦地で亡くなった人々の思いに、向き合えていないのではないでしょうか。

 私が4歳の時、父はフィリピンのレイテ島で戦死しました。貧しい生活を経て政治家になった私にとって、遺族会の活動はライフワークです。この問題を解決しない限り、戦後処理は終わらない。

 反省を込めて言えば、解決を先送りしてきた原因は、政治の貧困です。

 靖国神社の問題がこじれたのは、A級戦犯の合祀(ごうし)からです。1978年、当時の松平永芳宮司が、東条英機元首相らA級戦犯14人をひそかに合祀しました。昭和天皇が合祀に不快感を示し、このために参拝をやめたことが、故・富田朝彦・元宮内庁長官の記録で明らかになっています。

     *

 合祀で、天皇陛下が参拝することも、国民がわだかまりなく参拝することもできなくなりました。

 合祀か分祀(ぶんし)かは、国論を二分する難しいテーマです。政治家の意見も割れている。合祀を支持する人たちは、「太平洋戦争には植民地解放という大義があった」「分祀すれば、勝者の裁きである東京裁判を認めることになる」と訴えています。さらに、白虎隊など国の「賊軍」とされた人々までさかのぼって、合祀を求める政治家もいる。一方で、私のように、分祀することが、みながわだかまりなく参拝できることにつながるという立場の政治家もいます。

 日本遺族会も、議論を避けてきました。分祀といえば、職業軍人の遺族は反発する。一方、赤紙で召集された兵隊の遺族は、一緒にまつられることがとんでもないと思っている。議論しだすと分裂してしまう。難しいことは避けて、組織の結束が大事だ、とやってきました。

 自民党の支援組織である日本遺族会で、会長を務めていた私は2006年、分祀を提案しました。当時、遺族会分祀を議論することすらとんでもないという雰囲気でした。今、やっと地方の遺族会で議論しようとする動きが出てきています。私が会長を務める福岡県遺族連合会では14年、全国で初めて、分祀を求める決議を採択しました。3〜4年かかりました。

 私は、国の追悼施設をどう考えるかという議論の前にまず、いまの靖国神社に、誰もがわだかまりなく参拝できるようにすることが先決だと思います。

 そのためにはA級戦犯分祀しかないと考えています。私自身、東京裁判は非合法的だと思っています。しかし、だからといって300万人もの命が失われ、日本中が焦土と化したあの戦争に、誰も責任を取らないでいいのでしょうか。

 万が一、自衛隊に戦死者が出た場合どうするか、についてはさらに議論が必要でしょう。

     *

 私はこの問題の解決は安倍晋三首相にしかできないと思っています。保守的とされる人々に支えられた安倍首相だからこそ、国民を説得できる。首相に近い人にもそう伝えています。まずは遺族会、そして政治家の議論を積み重ねる必要があります。分祀ができれば、初めて戦後処理に本気に取り組んだと言える。未来志向というのなら、過去の反省の姿勢を見せなければ、誰も信用しないですよ。

 分祀によって、天皇陛下や多くの国民が参拝できない靖国神社の現状を打開する。そのうえで、国の追悼施設のあり方について議論を始めるべきだと思います。(聞き手・三輪さち子)

     ◇

 こがまこと 1940年生まれ。80年に衆院議員に初当選し、当選10回(福岡7区)。12年引退。02〜12年日本遺族会会長。

 

 ■《解く》千鳥ケ淵の整備が現実的 三土修平さん(元東京理科大教授)

 1946年1月25日に「神宮及神社ハ之(これ)ヲ宗教トシテ取扱(とりあつか)ヒ之ニ関スル事務ハ宗教法人令改正施行ノ日ヨリ文部省ニ於テ管掌スル」という閣議決定がなされました。靖国神社を除く神宮、神社を管轄したのは旧内務省でしたが、閣議決定で文部省に移った時の内相が私の祖父忠造です。こうした経緯を知った時から、本業の経済学のかたわら、ある種の宿命として靖国を研究してきました。

 戦後、様々な論争が靖国戦没者追悼施設をめぐって繰り広げられましたが、冷静さと現実に基づく認識からは遠いものでした。

 「謀略史観」と「せっかく史観」というべき対立がありました。謀略史観は「戦後、占領軍の押しつけた改革は、日本の文化や歴史も無視した不自然な代物で早晩ただされて当然だ」と考え、靖国を元の姿に戻せと主張します。

 一方、せっかく史観は「戦後改革で基本的人権が尊重される民主国家にやっとなった。悪い方に引っ張ろうとする勢力があるが、現状を守ろう」という主張です。

 「戻せ」、「守れ」と言い合うばかりで、双方ともに、戦前から敗戦を経て、戦後何が起きたのかという事実を踏まえていません。

     *

 では、事実はどうだったか。私は「駆け引きと妥協の産物」というのが実態だと考えています。

 戦前の靖国は陸海軍が管理した国家施設です。国家のための戦死者は靖国天皇の宗教である神道の祭祀(さいし)によってまつられました。

 天皇統帥権を持つなかで行われた戦争で、軍国主義を称揚する場所でしたから、戦勝国側に閉鎖されても仕方がない状況でした。

 存亡の危機に直面した靖国が生き残りのため選んだのは、国家や公共の施設ではない、民間の一宗教法人に変わるという道でした。

 それは靖国にとって効果と制約の両方をもたらしました。基本的人権を日本に根付かせようとした占領軍は、宗教政策で「政教分離」とともに「信教の自由」を柱に据えました。ならば個人や団体が、いかなる信仰を持とうが持つまいが、国家権力は信仰者や教団に介入できなくなる。

 国家機関という立場を捨て、宗教法人になれば、どんな権力も靖国の信仰の世界に干渉できない。だから戦前と同じ国家神道的な姿のまま生き延びられたわけです。

 A級戦犯の合祀(ごうし)という国家監視下の施設なら起こりえないことができたのも、私法人だからです。

 同時に、ほぼ無傷で延命したせいで「戦前のシーラカンス」になり、時代に合わせて変化できなかった。現代の人々が「戦没者の追悼施設は必要だと考えるが、そのありかたはこうあるべきだ」という姿からは相当隔たっています。

 自衛隊の海外活動で、万一殉職者が出ても、靖国の新たな祭神としてまつることは無理です。隊員にはキリスト教徒や創価学会員もいる。信教の自由を定める憲法下で、天皇が軍を統帥した戦争の死者を国家神道靖国に一律に束ねる過去の論理は通用しません。

     *

 従って、戦没者の追悼施設は靖国と別につくる必要があります。現在、身元が分からない戦没者の遺骨を納めている千鳥ケ淵戦没者墓苑を国の戦没者追悼施設として整備するのが現実的でしょう。

 2013年に米国の国務、国防両長官が千鳥ケ淵で献花しました。一気に追悼施設に拡充するのが難しいなら、外国の要人が訪れる度に案内して、慰霊の場の実績を重ねていけばいいと思います。

 菅原道真をまつった天満宮や、平将門が祭神の神田明神のように、靖国も歴史ある神社として国民の間に根付いていけばいいでしょう。政治的な騒動に巻き込まず、静かな鎮魂の場として歳月を重ねることがふさわしいのです。(聞き手・編集委員 駒野剛)

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 みつちしゅうへい 1949年生まれ。経済企画庁を経て2000年から14年まで東京理科大理学部教授。著書に「靖国問題の原点」など。
    −−「ニッポンの宿題 靖国戦没者追悼 古賀誠さん、三土修平さん」、『朝日新聞』2017年05月27日(土)付。

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