覚え書:「PKO25年 国際貢献、揺れた四半世紀」、『朝日新聞』2017年06月06日(火)付。

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PKO25年 国際貢献、揺れた四半世紀
2017年6月6日

日本のPKO派遣先/日本の主な活動と経緯

 国連平和維持活動(PKO)への自衛隊参加に道を開くPKO協力法の成立から、15日で25年になる。同法に基づき初めて自衛隊が海外に派遣されてから四半世紀。憲法と現実の間で揺れながら積み重ねてきた国際貢献を振り返る。(肩書、政党名などは当時)

 ■92年PKO協力法成立、カンボジアに初の派遣 「お金だけ」湾岸戦争で批判、焦り

 PKO協力法は1992年6月、自民、公明、民社3党などの賛成で成立した。社会、共産両党は「自衛隊の海外派兵ありき」と反発。採決を遅らせる「牛歩戦術」で抵抗した。国会の混乱を押し切ってまで新たな仕組みを作った背景には、前年からの「湾岸戦争のトラウマ」があった。

 クウェートに侵攻したイラクを91年に多国籍軍が攻撃。日本は130億ドルを拠出したが「小切手外交」と批判された。冷戦後の世界の安定のために日本も「人的貢献」を急げという空気が政府や自民党を覆い、内戦の和平合意に深く関わったカンボジアでのPKOに自衛隊を派遣しようと法案が提出された。

 憲法との関係が焦点だった。停戦後もにらみ合う各勢力と自衛隊がぶつかれば、海外での武力行使として違憲になりかねない。腐心の末に生まれたのが、9条の枠内で活動するとした「参加5原則」。自公民合意で法案に明記された。

 同法成立の日、宮沢喜一首相は談話を出す。「国連平和維持隊は戦わない部隊と呼ばれる。自衛隊が従事することは平和憲法の理念に合致したものだ」。そして、「カンボジアPKOへの人的協力の早期実現に努力していく」と表明した。

 自衛隊の施設部隊600人が10月までにカンボジアへ入り、内戦で荒廃した国道の修理などを開始した。だが翌93年4、5月に、日本人の国連選挙監視ボランティアと文民警察官が相次いで殺される。首相は窮地に立たされた。

 ■文民警官ら犠牲、苦肉の見回り策

 「さて、評価は」。カンボジアで日本から派遣した文民警察官が殺害された直後の93年5月5日午前0時すぎ。宮沢首相は首相官邸で、外務省幹部らにこう問いかけた。テロは続くが総選挙は行われるとの見通しが示されると、首相は「総選挙の意味は大きい。ここは頑張ってやり遂げましょう」。自衛隊のPKO派遣継続を決めた。

 内戦後初の総選挙は同月23日から始まる。南部タケオで施設部隊を率いる石下(いしおろし)義夫大隊長には、PKO司令部や地元警察から様々な情報が寄せられた。「武装勢力が選挙を妨害するため15日に自衛隊を襲う」というものまであった。

 丸太を組んだ壁で宿営地を囲み、警備を強化。17日に日本人の選挙監視要員41人が到着すると、防衛庁から「守るように」との命令が内々に届いた。小銃などで武装した八つのチームを急きょ編成し、約100カ所の投票所を見回った。

 当時、憲法との関係でPKO協力法の「巡回」は実施を凍結され、「警護」はできなかった。見回る理由を道路や橋の補修のための「情報収集」とする、苦肉の策だった。選挙監視要員が襲われたら割って入り、自分への攻撃とみなして正当防衛・緊急避難を根拠に対応するというわけだ。

 「隊内でも議論が分かれたが、ただちに準備にかかるしかなかった。十分な訓練をやる暇もなかった」と石下氏は振り返る。6日間の投票は大きな混乱なく終了。投票率は約90%に達し、カンボジア民主化の幕開けとなった。

 ■94年ルワンダ難民救援、02年東ティモール 想定外の危険、信頼構築へ手探り

 日本政府は94年、PKOではないが協力法に基づき、ルワンダ難民の救援のため自衛隊をアフリカ・ザイール(現コンゴ民主共和国)に派遣した。国会では護身用の機関銃を1丁にするか2丁にするかでもめた。

 任務は医療や給水、物資輸送。現地では殺人や暴動が相次ぎ、宿営地近くでは銃撃戦が頻発した。日本のNGOメンバーがトラックを強奪されて孤立し、武装した隊員20人が車両で駆けつけて保護した。

 「危険は盗賊ぐらいだと聞いていたが、まるで違った」。医療指導などにあたった元医官の塩見洋氏は話す。「自分たちをどう守るか、負傷者が出たらどう搬送するかなどの計画や訓練がほとんどなく、安全確保策が不十分だった」

 一方、カンボジア派遣から10年たった2002年。自衛隊の施設部隊が派遣された東ティモールではインドネシアから独立したばかりの国づくりに貢献した。

 自衛隊は首都などで道路や橋の建設補修に従事。2次隊長だった大坪義彦氏は、他国のPKO要員が住民たちに農業やパン作りなどを指導する姿を見て驚いた。人々の信頼や情報を得るためPKOで普及していた民生支援活動だった。

 「日本も何かしなくてはと手探りで知恵を絞った」と大坪氏。建設器材を提供するだけでなく、全土で土木能力を向上させるプログラムを東ティモール側に提供、要員の教育訓練も行った。その後、日本流をまねる他国のPKO部隊が出るようになったという。

 ■96年中東ゴラン高原、12年南スーダン 情勢悪化、難しい撤収タイミング

 シリアとイスラエルにまたがるゴラン高原で停戦監視を担うPKO。1996年に陸自輸送部隊が派遣されて以降、撤収までの17年間で延べ1500人の隊員が参加した。他国軍と交流する機会が多く、自衛隊内では国際活動を担う人材を育てる「PKOの学校」と呼ばれた。

 だが、シリア内戦の激化に伴いオーストリア軍に被害が出るなど治安が悪化。民主党政権は2012年に「評価は高いが継続は困難」(森本敏防衛相)と判断し、要員の安全を確保するとして撤収を決めた。治安悪化が理由の撤収は初めてだった。

 一方、南スーダンに施設部隊を派遣したのは12年1月。13年12月に事実上の内戦が勃発。昨年7月には首都ジュバで大規模戦闘が起き、治安が不安定化した。

 日本国内では5原則との整合性をめぐる激論が続いたが、政府は「ジュバは比較的落ち着いている」として派遣を継続。昨年11月、安全保障関連法に基づき「駆けつけ警護」などの新任務を付与した。

 そんな中、今年3月になって安倍晋三首相が「(活動に)一区切りついた」として、撤収を突然発表。5月27日に最後の派遣部隊が帰国した。

 PKO業務に長く携わった川又弘道元陸将は「ゴラン高原は兵力引き離しが任務で住民など守るべき対象がおらず、要員の安全確保を撤収理由にしやすかった。南スーダン文民保護が最優先の任務だったため、外交的に撤収のタイミングが難しかったのでは」と指摘する。

 ■憲法の国際協調主義に戻り、見直しを 東京外大教授(平和構築)・篠田英朗(しのだひであき)氏

 南スーダンでは、内戦や飢饉(ききん)などの困難の中にあって国連派遣団(UNMISS)が安定化の努力を積み重ねている。その矢先の自衛隊撤収は、日本だけが一方的に撤収したという意味を持つ。ひっそりと逃げ出してきたような感じがして、非常に残念だ。

 25年の日本のPKOをふり返ると、問題の根本は何をやりたいのかが見定まっていないことにある。

 きっかけは湾岸戦争で「金は出しても人は出さない国」と揶揄(やゆ)されたことだった。憲法にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という決意を踏まえて始めたものの、いまだに憲法の国際協調主義をどう推進していくのかの見込みが立てられていない。

 安全保障関連法によって「駆けつけ警護」の任務が与えられたが、対象は限定的で国連が各国に求める住民保護までできるわけでもない。PKO参加5原則も時代遅れで、移り変わる実態と乖離(かいり)している。現実とのギャップが、南スーダン派遣で顕在化してしまった。

 PKO協力法の運用が著しくあいまいなまま、自衛隊の活動はこの25年、道路補修などのインフラ整備に限られてきた。このままでは今後の四半世紀は持たないかもしれない。憲法の国際協調主義に立ち返り、PKOも含めて何ができるのか、改めて考える時期に来ていると思う。

 ■世論の「支持」増減 内閣府調査、昨年度は下落

 内閣府が毎年実施している世論調査によると、日本のPKO参加についての質問で支持する回答(「これまで以上に」と「これまで程度に」の合計)は、参加当初の1994年度は58%だった。

 その後8年続けて7割を超えたが、2003年度に66%に下落。この年は、PKOではないもののイラク戦争後の復興支援が国会で論戦になり、年末から自衛隊の派遣が始まった。

 その後上昇に転じ、10年度には85%に達し、8割前後に定着していた。ただ昨年度は73%に下落。昨年度は南スーダンの治安悪化を受け、自衛隊のPKO派遣部隊の活動のあり方が議論になった。「これまで以上に」の回答は昨年度は19%で、調査を始めた94年度の15%に次ぐ低さだった。

 ◇この特集は谷田邦一、藤田直央が担当しました。
    −−「PKO25年 国際貢献、揺れた四半世紀」、『朝日新聞』2017年06月06日(火)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12973913.html


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