日記:集団的自衛権の「保持」については認めつつも、その「行使」は憲法上許容しなかった政府解釈のもつ意義

Resize7689

        • -

 九条の意味するところはシンプルなものである。
 敗戦を経験した日本人はもう戦争はこりごりだと身に沁みて思ったはずである。私は自衛隊が九条に違反するとは考えないが、しかし、ある種の解釈を通じなければ九条からそれがストレートに出てこない書きぶりの条文になっているのは、戦争放棄の悲願が憲法に刻印されているからである。しかし、そうはいっても土足で自宅に侵入してくる暴漢は断固として撃退する。もちろん、そんなことは起きないように普段から近所づきあいはちゃんとしておかねばならないし、いざという時も可能な限り暴力を使わないで済むよう、冷静な判断力を養っておきたい。しかし、最後の最後、自衛の措置に出る……こう考えることは極めて自然なことである。ただし、自宅から暴漢を撃退するだけの力がない人もいることだろう。その場合、弱い人たちが集まって団結したり、強い人と共に闘ってもらおうと考えることもまた自然なことである。
 さて、以上のことを国家に置き直して考えると、個別的自衛権集団的自衛権も両方国家の自然権・固有権として「保持」と「行使」の双方が認められていると言えそうである。
 しかし、必ずしもそうではない。《弱い人たちの団結、強い人との協力関係》の構想は、集団的自衛権に訴える途とは別に、国際安全保障の枠組みに入る途がある。この二つの選択肢を前に、憲法の諸条文すなわち、憲法九条の「国際平和を誠実に希求し」と前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義」ならびに「人類普遍の原理」を合わせて読むとき、前者の同盟ブロックや地域取極の途ではなく、後者の途つまり国際安全保障こそが日本国憲法の指し示す進路と考えるべきである。戦争はもうこりごりだという戦争放棄の悲願から出発した“九条の環”の軌跡は「人類普遍の原理」等を通じることによって完結する。国連憲章五一条において固有権として承認されている集団的自衛権をめぐって、その「保持」については認めつつも、その「行使」は憲法上許容しなかった政府解釈は、日本がかかる進路を歩むチャンスをかろうじて確保してくれているのだ。
 だが、状況は逆に動きつつある。安保法制の国会審議のみならず、自民党改憲提案もそのような憲法的進路を阻害する可能性がある。詳細は、駒村「近代との決別、物語への回帰」(奥平康弘他編『改憲の何が問題か』二〇一三年、岩波書店)に譲るが、一点だけ指摘したい。自民党改憲案が成立すると現行憲法にあったいくつかの言葉がなくなる。その代表例が「人類」「普遍」「原理」の三語である。これらは先ほど述べたように、“九条の環”を完結させるための重要な理念表象である。それだけではない。自民党改憲案ではこれらの言葉が消え去った後に、その前文で「長い歴史」「固有の文化」「良き伝統」「美しい国土」が挿入される。近代の理念表象が消え去って、我が国固有の物語が挿入される。人類的視点に立った普遍原理に依拠するからこそ、我々は、緊張関係にある隣国に対しても、アメリカをはじめとする戦勝国に対しても、ものが言えるのである。普遍的観点に立ってこそ、国境を越えた批判が可能になる。私は日本の文化も伝統も大好きな文化保守主義者であるが、公共領域では普遍的視点を持ち続けたいと思っている。普遍的な視点を失った文化や伝統は、各国を内閉させ、健全な批判も内政干渉として扱われることになり、対話は遮断されるだろう。今この緊張した時期になぜ近代の普遍的原理を捨て、自国固有の文化に閉じこもる道を選ぶのだろうか。
 “九条の環”を完結させるための議論をそろそろ始めるべきだ。それは一国会における迷走した審議で決着のつく問題ではない。敢えて言えば、憲法改正を提案するくらいのことをしなければ、何も始まらないし、何も変わらないだろう。《戦後レジームからの脱却》を標榜する安倍首相は今般の安保関連法案の成立を脱却の一歩と位置付けていると思われるが、七・一閣議決定を通じての便法に流れることによって、戦後レジームからの脱却は、一政権下における一時の白昼夢に終わるだろう。白昼夢に自衛隊員の生命をはじめとして国民の幸福を賭すことはできない。
    −−駒村圭吾「安保法制と“九条の環”」、長谷部恭男、杉田敦編『安保法制の何が問題か』岩波書店、2015年、27−29頁。

        • -


Resize7152




安保法制の何が問題か

岩波書店
売り上げランキング: 191,957

改憲の何が問題か
改憲の何が問題か
posted with amazlet at 17.10.21

岩波書店
売り上げランキング: 332,283