日記:私たちが「記憶の想起」と呼んでいるものも、実は一時点での平衡状態がもたらす効果でしかない

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 生命現象が絶え間のない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうることは、この記憶物質をめぐる論争が行われていた当時に遡ること三〇年ほど前、すでにルドルフ・シェーンハイマーという科学者によって明らかにされていた。
 シェーンハイマーは食べ物に含まれる分子が瞬く間に身体の構成成分となり、また次の瞬間にはそれは身体の外へ抜け出していくことを見出し、そのような分子の流れこそが生きていることだと明らかにしていたのである。
 少し冷静に考えれば、常に代謝回転し続ける物質を記憶媒体にすることなどできるはずもない。だから、音楽やデータを記録する媒体として、我々は常により安定した物質を求め続けてきた。レコード、磁気テープ、CD、MD、HD……。
 ほんの数日で分解されてしまう生体分子を素子として、その上にメモリーを書き込むことなど原理的に不可能だ。記憶物質は見つかっていないのではなく、存在しようがないのである。ヒトの身体を構成している分子は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは脳細胞といえども例外ではない。
 脳細胞は一度完成すると増殖したり再生することはほとんどないが、それは一度建設された建造物がずっとそこに立ち続けているようなものではない。脳細胞を構成している内部の分子群は高速度で変転している。その建造物は至る部分でリフォームが繰り返され、建設当時に使われていた建材など何一つ残ってはいないのである。
 つまり、ビデオテープの存在を担保するような分子レベルの物質的基盤は、脳のどこを探してもない。あるのは絶え間なく動いている状態の、ある一瞬を見れば全体として緩い秩序を持つ分子の「淀み」である。
 そこには因果関係があるのではなく、平衡状態があるにすぎない。私たちが「記憶の想起」と呼んでいるものも、実は一時点での平衡状態がもたらす効果でしかない。
 大半の方がそうだと思うが、私たちは五年前や一〇年前の一年の過ぎ方がどうだったかなど思い出すことすらできない。過去は恐ろしほどにボンヤリしたものでしかないのである。
 仮に「五年前にはこんなことがあり、一〇年前にはあんなことがあったなあ」と思い出すことはできても、それは日記なり写真なり記念品があるから、それを手がかりに過去の順番をかろうじて跡づけられるのであって、感覚としては、一〇年前のことが五年前のことよりも、より遠い昔のおとだという実感を持つことはできない。
 逆に五年前のことが一〇年前よりも新鮮な記憶としてあるという実感も実はない。人は年齢を重ねるごときに時間経過の順に物事を記憶しているのではなく、実は過去をおぼろげながらにしか想起できはしないのだ。
 ここに記憶というものの正体がある。人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、「想起した瞬間に作り出されている何ものか」なのである。
 つまり過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態があるにすぎない。
    −−福岡伸一『新版 動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』小学館新書、2017年、34−38頁。

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