覚え書:「魂の秘境から:3 黒糖への信仰 沖縄で戦死した兄を思う 石牟礼道子」、『朝日新聞』2017年06月29日(木)付。

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魂の秘境から:3 黒糖への信仰 沖縄で戦死した兄を思う 石牟礼道子
2017年6月29日 

写真・図版
不知火海の磯辺」=鹿児島県出水市、芥川仁氏撮影
 我ながら、これほど黒糖に目がないのはどうしたことだろう。沖縄から海を越えて運ばれるうち、角のとれた小さなかけら。その褐色の肌理(きめ)に奥深い甘みと滋味が詰まって、飽きることがない。

 主治医の先生から「三度の食事が優先、間食は控えめに」とクギを刺されている身である。小指の先ほどのかけらを一日二つまでと決めたが、これがなかなか守れない。先日も、あと一つだけと口に運んだところを、見舞いに来た古い友人に見つかった。

 「また間食してから」と咎(とが)められ、「黒糖はわたしの信仰です」と思わず口走っていた。友人はふき出している。たいそうな言葉が出て来たものだが、なかば本心でもある。突然現れたかと思うまに、沖縄で戦死した兄を思う数少ないよすがなのである。

 「実はな、お前には兄(あん)しゃまのおっとぞ」

 父が言い出したのは、終戦の前年であった。前妻との間に息子がいたのである。ほどなく、父に似て線の細い青年が水俣のわが家にひょっこりやって来て、一緒に住むことになった。息子どころか、前妻の存在も知らされていなかった母は、十日ばかり寝込んだのではなかったか。

 しかし、兄は癇性(かんしょう)の父に似ず、穏やかで心根(こころね)の優しい人だった。共に暮らすうち、母は「魂の深か人」とまで兄のことを褒めそやすようになるのである。

     *

 貧しい百姓暮らしのこと、米の供出の割り当てを守ると、あとにはいくらも残らない。飢饉(ききん)も戦時の食糧難も、救ってくれるのは目の前に広がる不知火海であった。天草の島で育ったらしい兄は、ビナ(貝)の捕り方をよく知っていて、わたしを誘うと、しょうけ(ざる)を抱え磯に下りていくのである。

 渚(なぎさ)は命のざわめきに満ちていた。アサリ、ハマグリ、鬼の爪……。ぞろんこぞろんこ、ひしめいて、近づこうものなら本当に、こけつまろびつ逃げていく。「やあ人間ぞ。早(はよ)う早う」。呼び交わし、岩肌にぺったり吸い付いた舌先を、はがしてはまた吸い付いての急ぎ足。最後は水の中に、とぷん。湖のような水面に、さざ波が立つばかりである。

 なかには逃げ遅れて、岩陰にひっそり息を殺しているものもいる。兄はそのビナを器用にひっくり返してゆく。ふとその手を休めて、「思いがけず、妹のおったなぁ」とはにかむのである。

     *

 間もなく、兄は召集された。わたしたちのもとにやって来たのも、遠からず兵隊にゆくことが分かっていたからだろう。部隊は北支(中国北部)のあと、沖縄に送られた。当時、代用教員の錬成所に通っていたわたしは、きょうこそ兄からの手紙が来るかと心待ちにしていたが、舞い込んだのは「沖縄玉砕」の一報であった。

 時を置いて届いた公報には、沖縄本島南部で戦死とあったそうだ。たしかな場所はいまも分からない。

 戦後、ものを書くようになったわたしは取材で沖縄を何度か訪れた。兄のことを知った地元の方が「南部の戦跡をまわってみますか」と言ってくださったこともあるが、ありがたく思いながら遠慮させていただいた。

 戦死した兄は、ただお国を守ろうと願って沖縄に赴いたに違いない。それでも、島さながら戦場となり、県民の四人に一人が亡くなったという沖縄の受苦を思うと、ご厚意に甘えるわけにはいかなかった。南部にあるひめゆりの塔だけを訪れ、手を合わせた。

 道すがら、広いサトウキビ畑に出た。白い穂が波のように耀(かがよ)い、葉擦れのざわめきが聞こえるばかりだった。

 ◆「魂の秘境から」は原則、毎月下旬に掲載します。
    −−「魂の秘境から:3 黒糖への信仰 沖縄で戦死した兄を思う 石牟礼道子」、『朝日新聞』2017年06月29日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13009599.html





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