日記:熟議と無作為抽出というふたつの重要な要素を組み合わせた民主主義

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 古代アテネの政治は、熟議と無作為抽出というふたつの重要な要素を組み合わせている点がユニークである。古代アテネはこの組み合わせに、熟議民主主義(政治的平等と熟議が両立した場合のみ、この用語は適用される)における社会の規模の問題への独自な解決策を見出していた。熟議民主主義ではすべての市民が各自の見解にたどりつけるような適切な条件の下で等しく検討される。このプロセスは、互いに礼を失しない、正しい情報にもとづく議論の中で、人々が争点それ自体を考慮するという点において「熟議」であると言える。また、この先検証するとおり、全員の見解が等しく考慮されなければならないという点において民主的である。
 もちろん、参加者が自分の見解を持つに至るための「適切な条件」とは一体どういう条件なのかというのは大きな問題だ。しかしここでは、熟議と政治的平等を両立させるという目標がいかに社会の規模という問題に影響をうけるかに注目してもらいたい。
 一般市民はさまざまな誘因のため合理的無知の状態に陥ってしまうが、この小社会に選ばれた者は、いったん参加者として選ばれると、まったく異なる状況に置かれる。ひとりひとりが影響力をもつ、小さなグループの一員となるわけである。本書で討論型世論調査と呼ぶ行事の参加者それぞれが、一五名前後の小さなグループの中で一五分の一の発言権をもち、最後におこなわれるアンケートや投票では、各自のとる決断が数百分の一の影響力をもつ。参加者に選ばれれば、合理的無知を決め込むという堕落した計算はこの小社会の中では成り立たない。この小社会では、ひとりひとりの超えが重要に思え、各人が政治参加しようという気になるような、人間が手に負える規模に民主政治は組み立て直される。
 「古代アテネの状況と今は違っただろう、社会の規模といった問題はなかったはずだ」と思われるかもしれない。アテネはすべての市民が民会に集う都市国家として論じられることが多い。しかし、時代や異なる計算法により幅はあるが、市民の総数は三万人から六万人だった。民会が催されたプニュクスの丘には六〇〇〇人(増築以降は八〇〇〇人)しか集うことができなかった。つまり、古代アテネもまた現代と同じ根本的な問題を抱えていたのだ。すべての市民が一堂に会し、問題を論じあることはできず、ひとりひとりの直接的な政治参加はごく些少なものだったのである。
 しかしすべての市民が参加できる民会による直接民主制は、大衆を国政に関与させるひとつの方法にすぎない。自主的な参加者の市民リストからクレオテリオンという装置でおこなったくじ引きによる無作為抽出は、選ばれた市民に政治への関心を持たせる強力な誘因を与える代表民主制の一形式だった。現代において、陪審員になれば関心を寄せる重大な理由が出てくるように、くじ引きにより選出された市民が提案された争点や是非の理由を真剣に吟味するのも当然なことだった。ひとつ違いを言えば、古代の陪審員や数百人の評議員は、その小社会が市民全体を代表するのに足るだけ十分に大きかったということだ。現代の一二人の陪審制度では、船団的忌避や陪審コンサルタントの助言などの様々な理由でその選出自体が干渉をうけており、社会全般を代表しているとは言い難い。陪審員の数が少なすぎ、また両当事者が対峙する米国の司法制度では、陪審員選出に戦略的決定が数多くからみすぎているのだ。
 とはいえ、古代アテネの民主政を理想化するべきではない。これはよく知られたことだが、くじ引きや無作為抽出により選ばれた市民陪審団がソクラテスに有罪判決をくだし、民主主義をほぼ二五〇〇年近く後退させたのである(おそらくソクラテス本人がそのような評決を下すように陪審員を焚きつけて操作したことが近代の研究により判明してはいるが)。また、五〇〇人評議会とは異なり、一日がかりの熟議をおこなう古代アテネの制度の大半が、五〇〇人ほどの市民が円形競技場に座り、賛成派・反対派両陣営の意見を聴くという形で行われ、小グループや直接対話は行われなかった。それに、無作為抽出の方法に明らかな問題があった。まず、みずからが進んで手を挙げた者(「参加する意志がある者」)しかリストには記載されなかった。さらに、資格の有無を決める市民の定義は非常に限定的なもので、女性、奴隷、外国人居住者はすべて排除されていた。それでも、古代アテネ市民の民主制は市民社会に人間味のある規模での熟議民主主義をもたらしてくれるひとつの方法だった。そしてその規模は都市国家に限られたものではない。
 古代アテネの慣習の独自性は、無作為抽出と熟議というふたつの要素を組み合わせたことになった。しかしそのどちらも、それ以来、民主的な制度の設計において重要な地位を失ってしまった(無作為抽出は従来の世論調査で活用され、非公式には政治の世界に深く根づいているが)。無作為抽出と熟議を組み合わせるという考えは、民主制の歴史においてほぼ失われてしまっている。だが、熟議民主主義にふたたび注目が集まる中で、このふたつを両立させようという試みが近年になって見られるようになった。これは、公衆の意見聴取を実践するための戦略のひとつとして位置づけられる。それでは、そういった実践方法において問題となっている価値観や民主主義理論とは一体どのようなものなのだろうか。
    −−ジェイムズ・S ・フィシュキン(曽根泰教監修、岩木貴子訳)『人々の声が響き合うとき 熟議空間と民主主義』早川書房、2011年、27−30頁。

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