覚え書:「憲法季評 「こんな人たち」首相発言 国民を「個人」と見ぬ不明 蟻川恒正」、『朝日新聞』2017年07月20日(木)付。

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憲法季評 「こんな人たち」首相発言 国民を「個人」と見ぬ不明 蟻川恒正
2017年7月20日


 7月2日の都議選で敗れたのは、自民党東京都連というよりは、安倍内閣である。内閣支持率が投票日を前に急落し、選挙での歴史的大敗のあと更に落ち込んだことは、この観測が大きく誤っていないことを裏づける。選挙戦最終日、応援のため秋葉原駅前に立った安倍晋三首相は、集まった多くの市民による「安倍辞めろ」「帰れ」の連呼に「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだ。一国の首相が公然と国民の一部を「こんな人たち」呼ばわりすることは、議場で自身に厳しく迫る野党議員に罵声を浴びせることとは一線を画する。自衛隊に治安出動を命ずることができる首相による(自衛隊法78条)、自分に政治的に反対する者を国民として守ることを疑わせるような言動は、最高権力者が最も大切にしなければいけない国民の信任を失わせるものである。しかも、この首相発言は、自分に反対する者を敵視する安倍政治の根底を鮮明に炙(あぶ)り出すこととなった。

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 この発言で注目すべきは、「こんな人」ではなく「人たち」である。秋葉原でのうねりのような連呼を受けて、ネットでは「あれは共産党に動員されたのだ」といった風説が流れた。首相もまた、連呼する市民を何らかの組織の人たちと直感的にみなしたものと思われる。演説を邪魔されたと感じたとはいえ、1票でも多く票を取り込みたい投票日前日に有権者を攻撃することができたのは、「こんな人」呼ばわりをしても、失う票はその組織の「人たち」の票だけであり、コアな支持者の結束はむしろ高まると判断したからではないか。だが、その判断は誤りであった。事態を動員に帰す前記の風説に対し、連呼に参加したと言う人々から、「誰にも指図されず一人で行きました」という声が相次いだ。「私は行けなかったけれど、自分の声を代弁してもらえたと感じた」と、名も知らぬ参加者に感謝する不参加者のツイートが続いた。

 「辞めろ」の連呼は自発的に湧き起こったものと考えるほかない。秋葉原で首相の眼前に現われた政権批判者には、彼ら自身も気づいていなかったが、相互に独立した無数の「同志」がいた。だからこそ、あのような開票結果になったのである。

 自分と反対の立場の政治的行動をする人を動員された「人たち」と決めつける短絡は、沖縄・辺野古での基地反対闘争に参加する市民を「日当が支払われている」と誹謗(ひぼう)する人々の発言にも見られる。そうした発言をする人々は、人がもはや黙ってはいられない窮境に直面したとき、組織の支えがなくとも声を上げることがあるという人間性の真実が理解できないだけかもしれない。だが、その種の発言の主がもし首相であるとしたら、それを単なる想像力の貧困として捨ておくわけにはいかない。自らの発意により政治的行動に出た国民を組織に動員された人たちと根拠なくみなすことは、国民を個人とは見ず、組織に一体化した存在とみなすことであり、「すべて国民は、個人として尊重される」(憲法13条前段)とする日本国憲法の最も基底的な精神に反するからである。

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 組織と個人という二項図式は、この間の日本の政治過程を読み解く上で鍵となるものである。2015年9月19日未明、安保関連法が成立した。成立までの約1カ月、国会前は法案に反対する市民で連日埋め尽くされたが、これに対しても、政党や労働組合等の組織による動員であるという批判が声高に語られた。例えば数万人が集結した同年8月30日の国会前に、動員された者がいなかったといえば嘘(うそ)になろう。けれども、その場を埋めた大多数の人は、法案に対し、それぞれに居たたまれぬ思いを持って集まった個人であったはずである。政権はこれらの人々を恐れたが、9月後半の大型連休が明ける頃には忘れるだろうと高を括(くく)ってもいた。組織による動員と個人に発する行動との見分けがつかず、しかも、個人の力を見くびっていた。

 いわゆる共謀罪法をめぐる今年の国会審議では、「一般人」が処罰の対象になるかが焦点となった。法案反対者が示した懸念の核心には、政権批判をする市民が、本当は一人一人別々に行動しているのに、「組織(指揮命令に基づき、あらかじめ定められた任務の分担に従って構成員が一体として行動する人の結合体)」(「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」2条)に関係する「人たち」とみなされてしまうのではないか、いいかえれば、個人の行動とは認められないのではないか、という正当な危惧があった。そのことを曖昧(あいまい)にしたまま共謀罪法は成立した。動員と自発的行動を区別できない政権のもとでは、眼前の批判者を組織の「人たち」と決めつける短絡から前述の危惧の現実化までは、ほんの一歩である。

 政権批判をすることは、市民にとっては、危険をおかすことである。それでも声を上げた小さな個人の葛藤と決断を組織による動員と見誤る政権は、国民と向き合う自己の姿勢を反省することもできないだろう。政権がいまだ事態をわきまえぬなかで、自らの発意にもとづく政治的判断を積み重ねた個人が力を示すのは、都議選だけではあるまい。

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 ありかわ・つねまさ 1964年生まれ。専門は憲法学。日本大学大学院法務研究科教授。著書に「尊厳と身分」「憲法的思惟」。

 ◆憲法、科学などテーマごとの「季評」を随時、掲載します。蟻川さんの次回は10月の予定です。
    −−「憲法季評 「こんな人たち」首相発言 国民を「個人」と見ぬ不明 蟻川恒正」、『朝日新聞』2017年07月20日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13045086.html





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