覚え書:「森へ行きましょう [著]川上弘美 [評者]野矢茂樹(東大教授)」、『朝日新聞』2017年11月19日(日)付。

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森へ行きましょう [著]川上弘美
[評者]野矢茂樹(東大教授)
[掲載]2017年11月19日
 
■歪み増殖していく物語に迷う

 最近はなかなか迷子になることもない。だけど、私はけっこう迷子になるのが好きだ。いまどこにいるのだろうという、心細さがいい。ただし、その心細さを受け入れる気持ちの余裕も必要だけど。
 この本は川上弘美の長編小説である。「一九六六年 留津 〇歳」から始まり、「一九六六年 ルツ 〇歳」と続く。そして同じ時に生まれた同じ音の名前をもつ二人の人生が語られていく。留津とルツが出会うことはない。二つの物語が同時進行していくのだが、一方の物語の登場人物がもう一方の物語に出てきたりする。読者は、語り出されるエピソードや人間観察に、ときにニヤリとし、ときにドキリとしながら二つの物語を並行して読み進んでいく。
 だが、この物語の前半ですでに感づかなければいけない。なんだろう、この微弱な緊張感は。
 時間は二人が五十歳になる二○一七年まで整然と刻まれていく。しかし、いわば物語の空間が歪(ゆが)むのである。お互いの登場人物が交差すると、留津の物語とルツの物語が作用しあって、かすかに陽炎(かげろう)のように物語の輪郭が揺れる。さらに読み進むと、留津/ルツと同じ音の人物が増える。「琉都」「るつ」「流津」「瑠通」「る津」。さらに、同姓同名の人物が、別人なのだが、まったく別人とも言えない仕方で現れてきたりもする。
 人生には無数の分岐点がある。小さな分岐点なら、ほら、いまも。そこで人生が変わる。別の道を行っていたならば、どうなっていただろう。その分岐した物語が、ここに描き出されているのである。流れていく時間に沿って、物語の空間が歪み、分岐し、増殖する。次第に読者はその中で眩暈(めまい)に襲われるだろう。
 それが、森だ。人生という森の中に、私はいる。もっと深く。さあ、森へ行きましょう。−−どうして? 迷子になるために。迷子を、楽しむために。
    ◇
 かわかみ・ひろみ 58年生まれ。96年、『蛇を踏む』で芥川賞。『ぼくの死体をよろしくたのむ』など。
    −−「森へ行きましょう [著]川上弘美 [評者]野矢茂樹(東大教授)」、『朝日新聞』2017年11月19日(日)付。

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