覚え書:「戦死と向き合う 戦後72年夏:5 美談演出『誉れの子』 『靖国で父と対面』、戦意高揚」、『朝日新聞』2017年08月16日(水)付。


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戦死と向き合う 戦後72年夏:5 美談演出「誉れの子」 「靖国で父と対面」、戦意高揚
2017年8月16日

 
八巻春夫さんが表紙を飾った1941年4月発行の「写真週報」。緊張した表情で皇后陛下からお菓子を受け取り、左ほおに一筋光るものがみえる
 
 日本兵の父親が戦死したことで「誉れの子」と呼ばれた子どもたちがいた。全国各地で選抜され、東京・九段の靖国神社に参拝。「父との対面」は美談に仕立てられ、戦意高揚に利用された。戦後72年。普通に悲しむことを許されなかった遺児たちはいま、何を思うのか。(木村司、岩崎生之助)

 丸刈り頭の少年が、口を一文字に結んでいる。ほおには一筋の「涙」が光る。

 写真の少年は、小学5年の八巻春夫君。1938年、父が中国で戦死した。

 父が祀(まつ)られた靖国神社参拝のため41年3月、日本兵の遺児代表として上京。皇后陛下から菓子を受け取った。その瞬間をとらえた写真は、内閣の情報局が発行した国策グラフ誌「写真週報」の表紙を飾り、「誉れの子」の象徴的存在になった。

 それから70年余り。少年は87歳になり、山梨県南アルプス市で暮らしている。

 「お菓子をもらったときはなんとも言われない、感無量で、本当に涙が出ました。でも、撮影前、目薬をさされました」

 カメラマンが密着取材し、巻頭特集も仕立てた。

 《おらあ、お父(と)うをおぶって帰ってくる》

 山梨の自宅前で祖父母らに見送られるシーンの写真説明には、こんな言葉が添えられた。しかし、八巻さんに話した記憶はない。

 靖国神社での参拝。八巻さんはこう振り返る。

 「大鳥居をくぐって水で手を清めたのは覚えている。でも、何を拝んだのか、覚えていません。父に会えた、という気持ちもなかった」

 それでも、八巻さんにとって大切な思い出だという。「私が選ばれたのは、父だけでなく、母も、弟も亡くした、不幸な人間だったからでしょう。私のような子どもを、よくさがしてくれました」

 10代で一家の大黒柱を担わされた八巻さん。「お国のために活躍し、誇りだった」という父を恨む気持ちも、戦後になって芽生えた。靖国神社にはその後、行っていないが、主催者から贈られたアルバムは今も大切に保管している。

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 靖国神社に参拝した遺児の感想文集が残っている。

 京都の57人分を収めた「社頭の感激」(41年発行)に、名前のある高田誠祐さん(87)は今も京都市で暮らしていた。

 《この光栄の日を一生忘れず、宏大(こうだい)な皇恩に報ひ奉る為、立派な日本人となり父の志をつぎ、ちかつて忠孝の道を尽さうとかくごいたしてをります》

 記者が文集の写しを差し出すと、きっぱり言った。

 「これ、捏造(ねつぞう)でっせ。大人が書いたんやろう」

 参拝したことは鮮明に覚えている。遺児約60人と東京に向かい、寺で寝起きしながら参拝や式典をこなした。毎年夏には出雲大社などへの旅行に招待された。

 44年7月、愛知県の工場へ動員され、軍用機の翼を作った。その年も旅行の招待状が届いたが、遺児を手厚く支援する余裕は、戦況の悪化で失われていった。「辛抱してくれ」。引率の教師の言葉が耳に残る。

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 戦後も、各地の遺児が集団で上京し、靖国神社に参拝していた時期があった。

 田上洋子さん(77)=さいたま市=は中学入学直前の53年春、熊本県から数十人の遺児と列車で東京を目指した。母は黒い羽織で見送ってくれた。「神社にある大きな鏡に自分の姿を映すと、お父さんに守られているという思いがわいてきた」。地元に戻り、学校でそんな発表をした。

 父が召集されたのは1歳のとき。2年半後の44年2月、マーシャル諸島で戦死。遺骨は帰らなかった。

 「『靖国の子』だから、後ろ指さされるようなことをしてはダメ」。戦後、母に何度も言われた。

 だが、英霊や散華(さんげ)といった戦死を美化した言葉には、いつしかむなしさを覚えるようになった。「『名誉の戦死』と思わなければ遺族は救われなかったかもしれない。でも、父の死は、そんなきれいなものではない。むごいものです」

 自分も2人の子を育て、父が帰りたかったのは、ふるさとや家族のもとだったとわかる。15日正午、南の島にいる父を思って黙祷(もくとう)を捧げた。

 ■軍幹部「指導者に無批判な世代選んだ」

 遺児たちの靖国神社集団参拝は、日中戦争が激化した39年から43年まで続いた。陸海軍大臣訓話を聞く式典もあった。

 「感激性強く而(しか)も指導者の指導を無批判に受(うけ)入れる年配を選んだ」。参拝事業を進めた軍人援護会発行の冊子には、陸軍少将のそんな解説がある。

 新聞や雑誌、ラジオは参拝の模様を「遺児、靖国で父と再会」と美談にして報じた。

 遺児約2千人分の感想文を分析した学習院大学の斉藤利彦教授(教育史)によると、年1回の参拝事業への参加者は計約1万8千人。国民の戦意を高揚させ、総力戦態勢をつくる狙いがあったとみられる。「父親を失った悲しみすら素直に持たせてもらえない。国家指導者の思想が子どもたちの心に内面化されてしまった」

 戦後は、52年の講和条約発効で日本が独立を回復して以降、県や遺族団体などが主催した遺児集団参拝が50年代を中心に行われた。
    −−「戦死と向き合う 戦後72年夏:5 美談演出『誉れの子』 『靖国で父と対面』、戦意高揚」、『朝日新聞』2017年08月16日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S13088722.html



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