覚え書:「耕論 「子どものため」って? 山本愛優美さん、春日武彦さん、美輪明宏さん」、『朝日新聞』2017年08月30日(水)付。


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耕論 「子どものため」って? 山本愛優美さん、春日武彦さん、美輪明宏さん
2017年8月30日

イラスト・小倉誼之

 「子どものため」って大人はよく言うけれど、本当だろうか。有無を言わさずに子どもを方向づけ、小学校でも道徳を教科にして大人が評価するようになる。それってほんとに子どものため?

 ■「思惑通りに」は息苦しい 山本愛優美さん(高校2年生)

 大人はすぐ私たちに「子どものために」って言います。でも、大人が作った枠に閉じ込めようとしているだけなんじゃないかっていう息苦しさや不満を、特に中学校時代に感じていました。

 3年間続けた中学の生徒会活動でのことです。2年生の後期に会長をした時、全校生徒が交流する新しいイベントを始めたいと考え、3年生でも会長を続けようと思ったんです。うちの学校では役員を選ぶ時に事前に調整をして、なるべく選挙にしないのが慣例でした。候補になっていた人たちと話し合い、それぞれの役職を決めて先生に報告したところ、なぜか怒られちゃった。「会長の器じゃない」とまで言われました。

 それでもやりたいと言っていたら授業中に1人だけ呼び出され、ほかの人に会長を譲るように説得されました。最後は「そのほうが組織のためなのかな」と、無理やり自分自身を納得させるしかなかった。生徒の自治組織というのは、名ばかりなのだと思い知りました。新しいことをやりたくても、やらせてもらえず、つらい経験でした。

 だったら自分でやっちゃおうと思って、高校生のいまは地元の十勝のために活動する「TK(とかち高校生)部」の代表をしています。ツイッターなどで中高生に呼びかけて昨年発足。十勝の活性化を考えるイベントを催し、大人と一緒に議論しました。

 私にとって、いま学校は、友達とかかわり、部活をし、勉強をする――それだけの場所になっています。

 教育無償化が議論されていますね。勉強する場が無料になるのはありがたいです。でも同時に、学校が大人に言われた通りにする場ではなく、子どもが自分で成長できる機会も提供してくれたらどんなに良いだろうって思います。道徳の授業も「正しさ」を一方的に教えられるのではなくて、自分の道徳観を自分で考えられたらいいですね。

 私は学校の閉塞(へいそく)感がすごく嫌で活動の中心を外に移しました。でも、自由なはずの校外の活動にすら制限がかかることがあると先輩から聞き、学校と良い関係を保つ努力をしています。勉強もそれなりの成績が取れるように努力している。そのせいか今のところ、私がしていることに反対する先生はいないですね。

 帯広のコミュニティーFM局「JAGA」で、「女子高生のお仕事インタビュー『ミライのトビラ』」のナビゲーターもしています。月1回、社長さんや自営業の方々に話を聞く番組です。

 学校の外で活動して思うのは、大人にもいろんな人がいるということですね。尊敬できる人もいれば子どもみたいな人もいる。子どもと大人の間に線引きして区別する必要はないんだと思いました。

 (聞き手・吉沢龍彦)

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 やまもとあゆみ 2001年生まれ。北海道帯広市の高校2年生。地元の十勝地域の活性化を目指し、中高生が運営するボランティア団体で活動中。

 ■大人社会がまず変わって 春日武彦さん(精神科医

 「子どものために」という言葉を聞いて、素直に「そうですね」と、他人の子どもについても自分の子のように思える大人がいまどのくらいいるでしょうか。

 昔から「子どもは社会の宝物」といった言い方があります。頭では分かりますよ。この国の存続には子どもがちゃんと育つことが必要だ、と。

 しかし、今の現実世界では、隣の子のことはよく知らないし、公園で下手に声をかけると変質者扱いされる。隣の子とすらリアルな一対一のつながりがないのに、ひとくくりにされた「社会の子ども」に親身になれますか。

 昔は違いました。私の子ども時代、野球をやっていると、知らないおじさんが「俺にも打たせろ」と言いながらバットを持ってやってきた。しつけをしてくれる近所の大人もいました。地域に共同体があり、よその子とのつながりも感じられました。

 なら昔に戻そうという発想は単純に過ぎます。個人情報の保護が優先される現代では、隣近所にも家族のことを知られない方がリスク管理にかなうとされます。子どもが性的な対象になる犯罪が目立ってきた現実もあります。

 そもそも大人同士ですら、近所でリアルなつながりがない。大人の共同体が崩れたなかで、その社会で宝物のように共有できる子どもなんていなくなったのです。にもかかわらず、「子どものために」と言うのは、大人の社会が崩れていることをごまかすようなものです。

 いまや「子どものために」と呼びかけるのは、大人の共同体が存在しているかのように装い、いもしない「共有の子」のために頑張ろうと言い募るようなもので無理があります。

 いっそ「大人のために」と言った方が自然です。大人が住みやすい社会にするために、まずは大人同士で考え、そのうえで子どもとどう付き合うかを考えるのです。

 精神科医として他人の心の闇を見てきた私でも、道であいさつされたら無条件に「世の中まんざらでもない」と思う。人間の心には単純なところがあって、あいさつ一つで違う世界とのつながりを感じられるものです。他人のえたいの知れなさを埋めるために、あいさつのような無難な言葉はある。無難なこともできない社会で大仰な言葉を吐いても仕方がありません。

 地域での礼節を大切にしましょうと言ったら、すごくつまらなく聞こえるかもしれません。「結局、道徳か」と。ただ、学び手になるべきは大人です。大人が互いのつながりを取り戻さないことには、子どもとのリアルなつながりも取り戻せません。大人同士の壊れた関係を直視し、修復を考える。その方がよほど子どものためになります。

 (聞き手・村上研志)

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 かすがたけひこ 1951年生まれ。東京都立松沢病院部長などを経て、成仁病院院長。近著に「鬱屈(うっくつ)精神科医、お祓(はら)いを試みる」。

 ■生き様を見せることこそ 美輪明宏さん(歌手・俳優)

 私が一番多感だった子ども時代は戦時中でした。長崎の実家はキャバレーのようなカフェや銭湯をやっていて、昼間とは違う大人たちの姿を見て育ったので、かわいげのない、変わった子どもでした。

 普段は立派な身なりの人が意外とだらしのない体で、ヨイトマケのおばさんが立派な体だったり、官職にある人がお忍びで来て、ホステスにいたずらしてヘラヘラしたり。そんな大人たちが「ねばならない」と押しつけていた軍国教育は、長崎にも原爆投下を招いた末の終戦で全てひっくり返り、美徳とされてきた価値観は悪徳になりました。

 私は、そんな大人たちをみて思ったんです。ひとの人格や立派さは、容姿や年齢や肩書なんかとは一切、関係ない。目の前にいる人の魂が、ただ清らかであるかどうかだけを見るようにすればいい、と。その思いは、今に至るまで変わっていません。

 子どもは、複雑怪奇な生き物です。特に、分別がつく前の幼児は常にくるくると動き回り、何をするかわからない。でも、幼児だと思っても、大人以上の冷徹な思考で人を観察しています。親や教師の心や動き方も、どこかで見ている。この人はあの人が嫌いなんだとか、この人はだらしないとか、ちゃんと勤務評定をつけているんです。だから、そんな大人が「子どものため」と言っても、腹の中でせせら笑う子もいます。

 それなのに、こんな政治で、国が道徳を教科化? 笑っちゃいますよ。ヒステリーをおこし、「記憶にございません」と言っていれば大丈夫だと教えるんですか。政治だけではありません。いじめで自殺した子がいるのに、保身に走る教育委員会。金もうけ主義で、暴力やグロテスクな表現ばかりの漫画やゲームや映画。お前のためだと言いながら、自分のミエや人生の尻ぬぐいのために、子どもを塾にがんじがらめにする親。大人がやるべきことって、そういうことなんでしょうか。

 本当に愛情をもって子どもを導くには、まずは導く資格があるかどうか、我が身を振り返ることです。特に今は本を読まない大人が多く、言葉遣いもめちゃくちゃ。あいさつや敬語の使い方も子どもに伝わり、人生を左右します。本当に「子どものために」と思うのなら、まず大人が本を読み、日本語の勉強からし直した方がいいと思います。

 「人のハエを追うより、自分の頭のハエを追え」って言いますでしょ。子どもは、親の背中、大人の一挙手一投足を見て育つ。本当に子どものために必要なのは、どんな教育よりも親の生き方、大人の生き様なんです。その上で、時に突き放して苦労から学ばせる厳しさと、時に身を挺(てい)してでも守り抜くバランスが、子どもへの真の慈悲になるのです。

 (聞き手・吉川啓一郎)

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 みわあきひろ 1935年、長崎市生まれ。16歳でデビュー。9月から東京を皮切りにシャンソントークの全国公演を予定。
    −−「耕論 「子どものため」って? 山本愛優美さん、春日武彦さん、美輪明宏さん」、『朝日新聞』2017年08月30日(水)付。

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(耕論)「子どものため」って? 山本愛優美さん、春日武彦さん、美輪明宏さん:朝日新聞デジタル