日記:柳美里さんとエマニュエル・レヴィナス
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わたしは、大勢の前で一方的に話をすることが苦手です。講演やシンポジウムの類は内容如何にかかわらず全てお断りしていたのですが、震災以降は、小説や連載エッセイの締切状況や、講演会の趣旨に応じて受けることにしています。
仮に平均寿命の八十七歳まで生きるとしても、わたしの持ち時間は、あと四十年−−、作品を書いたり、人前で話したりできる創造的な時間はもっと短いでしょう。東日本大震災や熊本自身のような大地震や大津波に襲われ、今日命を落とさないとも限らない。指名される、要請があるということを、縁があるととらえることにしたのです。
舞台上には大きな垂れ幕がかかり、佐藤弘夫さんとわたしの演題が書かれていました。
わたしは主催者に決めてもらった「福島に寄り添う私」という演題、佐藤弘夫さんは「神・人・死者−−日本列島における多文化共生の系譜−−」という演題でした。
わたしが先だったので、要点を箇条書きにしたメモを演題に並べて舞台袖に引き返すと、佐藤弘夫さんが「こんなに大きなホールだと、緊張しますね。しかも、昌平中学校と高校の生徒もいるんですね。年齢層が幅広い」と気さくに話しかけてくださいました。
たしかに緊張はしていたのですが、成功したとしても自分以上にはならないし、失敗したとしても自分以下にはならないと割り切れば、声が上擦ったり脚が震えたりすることはありません。
わたしは、フランスのユダヤ人哲学者であるエマニュエル・レヴィナスの『全体性と無限』(熊野純彦訳、岩波文庫)の中の「言葉が維持するものは、言葉が宛先として指定し、言葉が呼びかけ、言葉が祈りを求める他者に他ならない」「人間は他者のために生き、他者から出発して、自己の外部で存在できるものとして定義されなければならない」という言葉を紹介して、話を終えました。
−−柳美里「はじめに」、柳美里・佐藤弘夫、写真・宍戸清考『春の消息』第三文明社、2017年、3−5頁。
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