日記:「風景の発見」
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柄谷行人の「風景の発見」の論旨を端的に纏めてしまうなら、こと「(近代)文学」に限らず、おおよそ「芸術」について「三人称客観描写」なるものは一種のフィクション、それも歴史的なフィクションである、ということになるだろう。発見=創出=捏造される「起源」をめぐるパラドックスはとりあえず措くとして、そこではまず「客観」と「主観」が、煎じ詰めれば弁別し得ないこのなのだということが主張されていた。
より精確に述べれば、誰であれ「人間」であるからには、例外なく「主観/内面」から脱し得ないのであって(むしろ脱したと思った時にこそ「内面」は強く作動している)、だからごく当然のように「客観/外界」だと思われている「風景」は、ほんとうは常に内的な「風景」であるか、せいぜいが「内面」から透かし見られた外の「風景」に過ぎない。そしてもっと重要なことは、そこからこそ「客観」という虚構が生まれてくるのだということである。
無数の「主観的な風景」から絶対的に隔てられた真の「キャッk何的な風景」があるのではない。そんなものはない。いやあるのだとしても「人間」にはそれに触れることが出来ない。むしろ「人間」にはそれに触れることが出来ない。むしろ「主観」たちの底支えによって「客観」という幻想が成立していると考えるべきなのだ、と。これは哲学でいうところの「実在論」と「反実在論」の対立によく似ている。デカルトからデネットまで延々と変奏されてきた、おそらくは正答のない難問。
−−佐々木敦『新しい小説のために』講談社、2017年、106−107頁。
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