日記:この世界が異邦的であるということ

        • -

 この世界が異邦的であるとは、だが、どういうことだろうか。それは、ひとつには、この世界のなかで<私>の存在がたんなる偶然にすぎないことだろう。私はどのみち、世界のなかで「異邦人」でありつづける。芸術作品は、この意味でも真理を語っている。子どもの私が目にした工業地帯の風景も、おなじ真実をあかしていたとおもわれる。
「あらゆる場所で世界の連続性に亀裂が生じている。個別的なものが、存在するという裸形において浮きたっている」。初期の著作のなかでレヴィナスは、そんなふうにも語っていた(『存在することから存在するものへ』
 私はなんらかかわりもない裸形の世界のただなかに、私もまた身ひとつの裸形で投げだされている。それは一箇の悲哀であろう。この世にあることの、底しれない悲惨でもあるようにおもわれる。だが、この悲惨ゆえに、他者へと私はひらかれるのではないか。
レヴィナスもじっさい、さきに引用した部分のすこしあとで、「存在することはそれ自体としては、世界のうちで一箇の悲惨である」と書いている。だが、とレヴィナスはつづける。「この悲惨さのうちに、私と他者とのあいだにはレトリックを超えた関係がある」(『全体性と無限』)。レトリックを超えるとは、さしあたり支配と暴力とを超え出るということである。レヴィナスのいうテクストは、私にとっては異様な魅力を湛えてうたってくるようになった。
    −−熊野純彦レヴィナス入門』ちくま新書、1999年、16−17頁。

        • -






レヴィナス入門 (ちくま新書)
熊野 純彦
筑摩書房
売り上げランキング: 239,468