日記:ロックのフィルマー批判

ジョン・ロック(加藤節訳)『完訳 統治二論』(岩波文庫)。

膨大な第一部はフィルマーの王権神授説批判。「いかなる人間も自由に生まれついていない」というフィルマーの神学は、人間の自由や幸福の追求を保証する神への冒涜に他ならない。近代民主主義基礎論は神学的挑戦(「神の作品」の政治)から生まれたことに留意しなければならない。

人間の「プロパティ」は神に由来する。だとすれば、フィルマーとは異なった仕方で弁証しなければらない。ここに「神学のパラダイム」と「政治的なるもの」(を相対化)させていく往復=神学のダイナミズムが、仮象を絶対化する神学「なるもの」を撃つのである。現在も同じような危機の時代である。

僕は神が存在するのか、神が存在しないのかに関心は一切なくて、フィルマーの神学のようなものが大手を振って歩くことが恐ろしいというだけの話。おなじような現象がかく方面で惹起していることに驚きを隠せない。驚くだけでなくて何とかしなければならないのだけどね。




覚え書:「社説 政治と女性 目標値を検討する時だ」、『朝日新聞』2017年12月17日(日)付。


        • -

社説 政治と女性 目標値を検討する時だ
2017年12月17日

 もはや「自然増」を漫然と待つべき状況ではない。政治の世界に女性が少なすぎる。

 10月の衆院選で、女性候補者は全体の17・7%だった。それでも過去最高だったというが、5人に1人にも満たない。

 当選者数は、もっと小さい。定数465で、47。前回より2人増えても1割にすぎない。

 国際的にも格差はきわだつ。「世界経済フォーラム」によると、日本の「国会の男女比」は144カ国中129位。まぎれもない「後進国」である。

 男女雇用機会均等法の施行から31年たっても、政界は分厚いガラスの天井に覆われている。

 いま必要なのは、ありふれた女性活躍の掛け声ではない。真の政治的意思を持って「目標値」を定めることである。

 女性が増えればすぐ社会が良くなるわけではない。男性と同様に、女性も個々には政治家としての資質の優劣はある。

 だとしても今の状況で国民の声をあまねく反映できるはずがない。国の意思決定の場に女性の数が大きく増えれば、政治の風景は間違いなく変わる。

 多くの女性が、育児と仕事を両立させる苦労を強いられている。職場で名字が変わる不都合さも身にしみている。家庭の事情で仕事をあきらめるのも、女性の場合が多いのが現実だ。

 より暮らしやすい社会づくりに何が必要か。女性が多い国会は、長時間労働や保育、介護などの問題にもっと敏感になりえる。選択的夫婦別姓を求める声も届きやすくなるだろう。

 海外では、候補者や議席の一定割合を女性に割り当てるクオータ制の導入が進んでいる。

 台湾では、国会にあたる立法院で12年前から比例代表名簿を半分以上にし、今や議員は4割近くを占める。フランスも国会選挙で各政党とも候補を半々とするよう義務づけている。

 日本では遅ればせながら、国政選挙や地方議会選挙で均等にする努力義務を政党に課す法案が今年合意されたが、先の衆院解散で廃案になった。

 各政党とも真剣にやる気があるのか。すぐに同数を求めるクオータ制が難しいなら、段階的な目標を立てる、あるいはまず比例代表の名簿だけ半々にする方法なども検討できよう。

 女性の現職政治家や経験者と相談できる若者向けの議員育成プログラムもほしい。政治との接点を増やすため、各種の審議会で女性委員を半分以上に定めることから始めてもいい。

 大切なのは、具体的な結果の目標を定め、実現させる行動を起こすことだ。
    −−「社説 政治と女性 目標値を検討する時だ」、『朝日新聞』2017年12月17日(日)付。

        • -


(社説)政治と女性 目標値を検討する時だ:朝日新聞デジタル