「まったく書かれなかったものを読む」。

 「まったく書かれなかったものを読む」。この読み方が最古の読み方なのだ。つまり、それはすべての言語に先立つ読み方であり、内臓から、星座から、あるいは踊りから読みとることだ。のちになって、ひとつの新しい読み方の媒介肢が使われるようになった。すなわちルーネ文字と象形文字である。それらが中継の宿駅となり、かつて神秘術(オクルト)の実践の基盤であったあの模倣の能力は、この駅を経由して書字と言語のなかへ入りこんでゆくこととなったのだという仮説は、いまや容易に理解しうるものとなる。このように言語は、模倣的な行動の最高段階であり、非感性的な類似のもっとも完璧な記録収蔵庫だと言えよう。つまりそれはひとつの媒質(メーデイウム)であって、模倣的な表出と理解とにかかる昔日の力は、残りなくこの媒質のうちへ流れこみ、ついにそれらの力は魔術的な力を清算するにいたるのだ。


    −−W・ベンヤミン(佐藤康彦訳)「模倣の能力について」、久野収・佐藤康彦編集解説『ヴァルター・ベンヤミン著作集3 言語と社会』晶文社、1981年。

最近、ベンヤミン(Walter Bendix Schönflies Benjamin,1892−1940)を読むことが多いのですが、まさにこころだろうなと胃の腑をぎゅっとつかまれた一文に出会いましたので残しておきます。

ちょうど、今日の講義では、「なんで良書を読む必要があるのか」という問題を1コマかけて講じ、最後に、「詩心の復権」へと授業を進めようと考えていたのですが、前者に注目すれば、人類の知的遺産としての古典名著を読まなければならないことはいうまでもありません(細かい理由は今日は措きます)。

そして後者に即すれば、自然の中で、人間のなかで、そして社会の中で、「読んでいく」その完成が必要不可欠だろうというところ。しかし、これは決して「空気を読む」とは違いますぜ。

言葉にならない感覚や、事件を「言葉」に転換していく。

そこなんだよなぁ。

などと思いつつ……もうこんな時間なので、サクッと呑んで沈没しようと思います。

いやしかし、大切なことは何か。

「詩心の復権」ですよ。

私には「詩心」はありましぇんけれども(苦笑