改良をすなわち「作られつつある社会と作られた社会との間の違いを廃止すること」と受け取ってしまうと永遠の循環論の罠に陥ってしまうことになる

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 プラトンマルクスも、与えられた法を相対化する。−−その点で彼らはもっともである。彼らはしかしながらまた、法といったものをも相対化する。−−足がすべるのはそこでである。すべての法は、その抽象的な普遍性によっていつも欠陥があり不十分であるという、明白で根底的な検証から、プラトンは、正しい唯一の権力は《王にふさわし人間》か《哲学者の王》のそれという、《理想的な》結論と、運動を止めること、都市の実際の《質料》と法の間の、廃棄しえない原理によるずれを、できるだけ縮小するように計算した鋳型の中に、決定的に集団をはめこむこと、が必要であるという、《現実的な》結論を引きだす。マルクスは、疎外の廃止が、人間の本来よい性格をふたたび出現させるにしろ、《客観的な》社会的諸条件と主体の訓練が、個人の精神的・社会的な資質による制度と諸規則の完全な再吸収を可能とさせるにしろ、規則正しい自発性の社会に到達することによって、権利と法にけりをつけることが可能である、という結論を引きだす。二つの場合とも−−今日におけるそのほかあらゆる哲学におけると同様−−社会・歴史的なものの、制度の、本質、作られつつある社会と作られてしまった社会の間の関係、集団と法と法の問題の間の関係が、無視されている。プラトンは、自ら調整にあたる集団の能力を無視している。マルクスは、その調整が完全に自然発生的になる状態を、夢みている。しかし規則正しい自発性からなる社会という考えは、単に筋が通らない。アリストテレスは、その考えが野生の動物たちか神々にしか価しないであろうことを、道理をもって彼に想起させよう。もし、マルクスが夢みたような《共産主義の最高段階》において、権利も法もなくもがなのものであろう、というのも、社会的共存の諸規則が個人たちによって完全に内在化され、彼らの体質と一体化されているであろうから、と人がいったとすれば、こうした思想とは、死を賭して闘わねばならないであろう。完全に内在化された制度は、もっとも絶対的な圧制とも、歴史の停止とも、等しいであろう。制度に対するいかなる距離も、もはや可能ではないであろうし、また制度の変更も、考えられないであろう。われわれは、われわれが規則ではない限りでしか、ずれが存続している限りでしか、外在性が意地されている限りでしか−−法がわれわれの前に提出されている限りでしか−−、規則を判断し
変えることができない。これこそ、われわれは法に意義をとなえ、われわれが別な形で考えることができるようにする、条件そのものである。
 他治を廃止することは、作られつつある社会と作られた社会との間の違いを廃止することではなく−−それは、いずれにせよ不可能であろう−−、前者の後者への従属を廃止することを意味する。集団は、自らに自らの諸規則を与えるであろうし、集団が自らにそれらを与えていること、それらが、いくぶんか、つねに、不適切であるか、不適切なものになるであろうこと、集団はそれらを変えうること、−−それらは、集団がそれらを定期的に変えない限り、集団を拘束すること、を知っているであろう。
    −−コリュネリュウス・カストリアディス(江口幹訳)『社会主義か野蛮か法政大学出版局、1990年、427−428頁。

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最後の一段落に、改良することの出発点が明示されている。
この問題、改良をすなわち「作られつつある社会と作られた社会との間の違いを廃止すること」と受け取ってしまうと永遠の循環論の罠に陥ってしまうことになる。

依存関係の脱却は外からの廃棄によってなされるのではない。外からの廃棄は、その永劫の繰り返しとなる。

大切なことは何か。「前者の後者への従属を廃止すること」である。

13年前の今日、コルネリュウス・カストリアディス(Κορνήλιος Καστοριάδης,1922−1997)は亡くなった。

しかし彼の指摘する問題点は未だ未解決である。


(参考)『ル・モンド』紙が報じた「カストリアディスとユートピアの精神」



⇒ 画像付版 改良をすなわち「作られつつある社会と作られた社会との間の違いを廃止すること」と受け取ってしまうと永遠の循環論の罠に陥ってしまうことになる: Essais d'herméneutique


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