独我論者と我々が呼ぶ人、そしてただ自分の経験のみが本当のものだと言う人
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独我論者と我々が呼ぶ人、そしてただ自分の経験のみが本当のものだと言う人、その人は何もそれで実際的な事実問題について我々と食い違いがあるわけではない。我々が痛みを訴える時、ただそのふりをしているだけだとは彼は言わないし、他の誰にも劣らず気の毒に思ってくれる。しかし同時に彼は「本当の」という、通り名を我々が彼の経験と呼ぶべきものにだけ限りそして多分更に我々の経験をどんな意味であれ「経験」とは呼びたくないのである(ここでもまた、我々は事実問題で食い違うことはない)。
−−ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン(大森荘蔵訳)『青色本』ちくま学芸文庫、2010年、137頁。
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ときどき、「事実問題で食い違うことはない」にもかかわらず、話し合いが成立しないといいますか、わたしのそれだけが「真実」であって、あなたの言説は「真実」ではない……と自分自身へ撤退していくひとと出会うことがよくあります。
政治的イデオロギーでゴチゴチな場合は、そのパターンがよくあるので慣れておりますが、そうでない場合でも、仕事をしているときに、ときどきそうした事例に出会うことが最近多くなった気がします。
すなわち……。
私が「痛みを訴える時、ただそのふりをしているだけだ」は言わないし、「他の誰にも劣らず気の毒に思ってくれる」。
しかし、「本当の」いたみという場合、私の「痛み」は「本当の」いたみではなく、彼自身の経験だけに限定してしまうというパターンがそれなんですけどネ。
この現象をどのようにとらえるべきなのか頭を悩ませておりますが、ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein,1889−1951)の本意ではないでしょうか、そうしたひとびとをとりあえずのところ「独我論者」と呼ぶしかないですね(苦笑
⇒ ココログ版 独我論者と我々が呼ぶ人、そしてただ自分の経験のみが本当のものだと言う人: Essais d'herméneutique