【覚え書】言葉(パロール)の出来事という概念の正当化







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 1 言葉(パロール)の出来事という概念の正当化
 まず次の点を第一に決定したい。すなわち、ことばの出来事という概念は、どの平面で、どのような探究によって正当化されるか、である。それに対する答えは、現代の言語学によって与えられる。言語(ラング)もしくはコードの言語学から、言述(ディスクール)もしくはメッセージの言語学への移行を考察するとき、ことばの出来事という概念は正当であるばかりか、必須でさえあるのである。言うまでもなく、この言語学の区別は、フェルディナン・ド・ソシュールとルイ・イエルムスレウから発する。前者はそれをラング=パロールと言い、後者は図式=慣用と言い、チョムスキーの用語では、言語能力=言語運用と言う。しかし、いずれにしてもこの二元性から、一切の認識論的帰結をひき出さねばならない。すなわち、言述の言語学は言語(ラング)の言語学とは別の規則をもっているのである。この二つの言語学の対立から、最も隔たったところにいたのは、フランスの言語学者エミール・バンヴェニストである。枯れにとり、これら二つの言語学は同じ単位の上に構築されるものではない。記号(音韻的記号であれ、語彙的記号であれ)が言語(ラング)の基本単位であるとすれば、文(フラーズ)は言述(ディスクール)の基本単位である。それゆえ、ことば(パロール)の出来事の理論を支持するのは、文の言語学である。私はこの文の言語学の特質として次の四つをあげる。この特質は、私が出来事と言述の解釈学を形成する際に、直ちに役立ってくれよう。
 第一の特質。言述は時間的出来事として顕在的にそのつど実現されるのに対し、言語(ラング)の記号は潜在的であ、時間の外にある。エミール・バンヴェニストは、言語(ラング)の体系がこのように出来事となるのを、「言述の審級」(instance du discours)と呼ぶ。
 第二の特質。言語(ラング)は主体をもたない−−「誰が語るか」という質問は、言語(ラング)のレヴェルでは有効でないという意味で。それに対し、言述は人称代名詞のような指示詞の複雑な働きによって、それ自身の話者と関係づける。そこで、言述の審級は、自己指示的である、と言おう。
 第三の特質。言語(ラング)において、記号は同一体系内の他の記号にしか関係づけられず、したがって言語(ラング)は時間性も主観性ももたないゆえに、世界をもたないのに対し、言述はつねに、あることについて述べる。言述は、叙述し、表現し、再現しようとする世界を指示する。言語活動の象徴機能が実現されるのは、言述においてである。
 第四の特質。言語は単にコミュニケーションの条件にすぎず、コミュニケーションにそのコードを供給するだけであるのに対し、メッセージが交換されるのは言述においてである。その意味で、言述のみが世界をもつ、というだけでなく、言述だけが《相手》を、つまり、言述が話しかけられる他者、対話者をもつのである。
 以上の四つの特質が、全体としてのことば(パロール)を出来事として成立させる。
 この四つの特質があらわれるのが、言語(ラング)が言述として実現する働きの中だけあることは、注目すべきことである。それゆえ、出来事としてのことば(パロール)を弁証することが、われわれが言語能力(comp-e'-tence)が言語運用(performance)として実現する、その実現関係を明瞭にしてくれる限りは、いかなる弁証も有意味である。しかしその同じ弁証も、出来事としてのこの特性を、その弁証が有効に働く実現の問題から別の問題、つまり了解の問題にまで延長するときには、濫用となってしまう。
 いったい言述を了解するとはどういうことか。
 この質問に対する答えが、われわれの第二段階となる。
    −−リクール(久米博訳)「言述における出来事と意味」、久米博・清水誠・久重忠夫編訳『解釈の革新』白水社、1985年、47−49頁。

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⇒ ココログ版 【覚え書】言葉(パロール)の出来事という概念の正当化: Essais d'herméneutique




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