それがどれだけ、「健全と思われるある教義」であったとしても、それを「押しつけようとする」のはまずうござんす。







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 もちろん、健全と思われるある教義を国民に押しつけようとする欲求は新しいものではなく、また現代に特有なものでもない。けれども、多くの現代の知識人がこのような企てを正当化しようとする議論は新しい。そのいうところは次のようである。およそわれわれの社会において思想の真の自由はない。なぜなら大衆の意見や好みは、宣伝、広告、上流階級の手本、さらに人々の思考を必ず月並みの型にしてしまう、その他の環境的要因によって形づくられるものだからである。このことから、大多数のものの理想や好みが常にわれわれの支配することのできる事情によって形づくられるものとすれば、われわれは意識的にこの力を利用して、人々の思想を望ましい方向と考えられるところへ向けるべきであると結論されるのである。
 大多数のものが自主的にほとんど考えることができず、大部分の問題について彼らが既成の見解を受け入れ、また彼らがある一連の信念または他の一連の信念に引き込まれたり、甘言をもって引き入れられたりして、同じように満足しているということはおそらく真実である。いかなる社会においても、思想の自由ということは、おそらく単に少数のものにとって直接の意義がある。けれども、このことはだれかがこの自由をもっている人々を選択する資格があるとか、選択権をもっているべきであるというようなことを意味しているのではない。それはたしかに、ある集団が人々の考えたり、信ずべきものを決定する権利を要求するというような推定を正当化するものではない。いかなる種類の体制下においても、多数の国民はだれかの指導にしたがうものであるから、すべての人々が同じ指導にしたがうべきものとしても、なんら異なることはないということは、思想の完全な混乱である。知的自由がすべての人々に対して独自の思想の可能性を意味しないからという理由で、知的自由の価値に反対を唱えることは、知的自由に価値を与える理由をまったく見落としていることになる。知的自由をして知的進歩の主要な発動機としての機能を果たさせるために必要なことは、各人が何かを考えたり、書いたりすることができるということではなくて、なんらかの主張や考えがだれかによって論議されるということである。意見の相違が抑圧されないかぎり、常にだれかが同時代に支配的である考えについて疑問を抱き、その議論や宣伝の当否をたしかめるために新しい考えを提示するであろう。
 異なる知識や異なる見解をもっている個人のこのような相互作用は、精神生活を形づくる。理性の発展はこのような相違性の存在を基礎とする一つの社会的過程である。その本質はその結果が予言されえないということ、またどの見解がその発展を助け、どれが助けないかということが知られえないということ、簡単にいえば、この発展は現在われわれの抱いているなんらかの見解によって支配されるときは、常に妨げられるということにある。精神的発展またはそれに関するかぎりの一般的進歩を「計画化」したり、「組織化」することは言葉自体の矛盾である。人間精神がそれ自身の発展を「意識的」に統制すべきであるという考えは、それだけが何ものをも「意識的に統制」することのできる個人の理性と、その発展が依存している個人相互間の過程とを混同したものである。その発展を統制しようとすることによって、われわれはただその発展を妨げ、おそから早かれ思想の停滞と理性の低下をもたらすに違いないのである。
 集産主義的思想が理性を最上のものとしようとして出発するにもかかわらず、理性の発展の依存している過程を誤解するために、終局には理性を破壊することになるというのは、集産主義的思想の悲劇である。
    −−フリードリヒ・A・ハイエク(一谷藤一郎・一谷映理子訳)『隷属への道 全体主義と自由』東京創元社、1992年。

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それがどれだけ、「健全と思われるある教義」であったとしても、それを「押しつけようとする」のはまずうござんす。

「健全と思われるある教義」ならまだしも、まあ、近頃は、イミフなイデオロギーを、あたかも「みんなやっているみたいですから、お宅もどうですかッ」みたいなフレコミで宅訪するインチキ・営業マンであふれかえっているご時世だけれども……。

「健全と思われるある教義」なんて、所与のイデア的存在としては存在しないのにネ。









⇒ ココログ版 それがどれだけ、「健全と思われるある教義」であったとしても、それを「押しつけようとする」のはまずうござんす。: Essais d'herméneutique






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