[再掲]Small Is Beautiful  一般のひとびとの知恵と行動の実力





2008年9月にココログのほうで書いたものですが再掲しておきます。


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 希望がもてるのは、一般の人たちが専門家よりも幅広い見方と「人間らしい」考え方をとりうることが多いことである。現在、彼らはややも無力を思い知らされているが、彼らの力は新しい行動を自分で始めることではなく、すでに行動を起こしている少数者を理解し、支援するというかたちで発揮される。
(中略)
 私は技術の発展に新しい方向を与え、技術を人間に真の必要物に立ち返らせることができると信じている。それは人間の背丈に合わせる方向でもある。人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしいのである。巨大さを追い求めるのは、自己破壊に通じる。では、方向転換にはどれくらいのコストがかかるのか。生き残るためのコストを計算するのは邪道だということを忘れてはならない。もちろん、価値あるものはただでは手に入らない。技術の方向を切り替えて、人間破壊ではなく、人間に奉仕させるには、何よりも想像力を働かせ、恐れを捨てる努力が必要である。
    −−E・F・シューマッハー(小島慶三・酒井懋訳)『スモール・イズ・ビューティフル 人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1986年)。

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いつもの通りですが、人員不足のため、レジを打っていますと、やはりレジ袋を辞退される方が増えつつあるのを、現場的に実感します。

レジ袋と言えば、スーパー、コンビニをはじめとして、いわばあらゆる小売業であつかうサービスのひとつですが、これが一般化するのが1960年代のことです。ちょうど高度経済成長と重なる時期で、ひとびとは右肩上がりの経済成長が無限に続くと夢想していたころですが、そうした夢想は夢想でしかなく、有限資源の問題や地球環境に対する意識、そして経済的な要因が絡み合い、レジ袋が象徴する“使い捨て”のライフスタイルの見直しをどこか感じるようになってきたのでしょうか。

市井の職場は有料でレジ袋を提供するようなことはしておりませんが、ちょっとしたサービスをつけています。そのサービスが目当ての方ももちろんおりますが、いい年齢のビシッとネクタイを締めた紳士が、素敵な書類カバンから、マイ・バックを取りだし、「袋はいいよ」って声を掛けてくれる。主婦を絵に描いたようなおばちゃんが、カゴ2つも3つも買い物しながら、ナイロンのエコ・バックを二つか三つ取りだして、「いらないから」といってくれる。

会社の説明によると、レジ袋は、お猪口1杯分程度の原油コストが製造・精算・流通にかかるそうです(ただしその根拠は自分自身で文献やデータで確認したことはないのでなんともいえない部分もありますが)。しかし、そうした有限資産を使い捨てず、Co2削減へなんらかのアクションをおこしていこう、取り組んでいこうとするひとびとの姿をみると、やはり人間はなんと美しい存在なのかとも思ったりもします。

いつも出てくる、ガンジー(Mohandas Karamchand Gandhi,1869−1948)で恐縮ですが、ガンジーの有名な運動のひとつに「塩の行進」という運動があります。1930年にガンジーは、イギリス植民地政府による塩の専売に反対し、製塩の為にダーンディー海岸までの約380kmを行進した抗議行動のことですが、ガンジーは、「塩」という人間の生活にとってもっとも不可欠な存在を運動のシンボルにおくことによって、植民地支配の不合理性をこの運動で訴えます。

「塩」は人間にとって不可欠な存在です。そのわかりやすさが大切だったのでしょう。
ひとびとは、「塩」を支配するイギリス植民地政府の在り方に違和感を感じ、人間を支配するその構造と心に「魔性なるもの」を読みとったのでしょう。ひとびとはガンジーの行進に続きました。

そしてこの行進が、インドのイギリスの植民地支配に対する独立運動の全インド的な運動へ発展するおおきなきっかけ・転換点になっていくわけです。

その意味では、レジ袋辞退という運動も確かにわかりやすい運動である。
生活に密着し、できるところから挑戦できる、漸進主義の運動、これこそ時代を大きく変革できるチャンスなのかも知れません。

もちろん、うえにも書きましたとおり自分でもその根拠は確認しておりませんので、何とも言えないし、「単純な」「分かりやすい」という在り方に多大な問題が含まれていることも重々承知しております。

しかし、「自分でも実践できる!」という感動と運動論が提示できない限り、そうした運動は、結局は絵に描いた餅でおわります。悪くすれば、前衛理論に牽引され、引きずられ、人間という存在そのものを結果としては阻害する要因として働いてしまうだけですし。
最初に引用したのは、経済学者・E・F・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher,1911−1977)の言葉から。物質至上主義の現代文明に対する批判の嚆矢といえようが、今読んでも実に含蓄深いものがあります。すなわち、生活者の生活実感こそが時代を支えそして変えていくということです。


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希望がもてるのは、一般の人たちが専門家よりも幅広い見方と「人間らしい」考え方をとりうることが多いことである。

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ともすれば、複雑な現実の世界に、ひとびとは時として無力になったり希望を失ったりすることが多々ありますが、いや、そうではない。一般の人たちが持っている「幅広い見方」と「人間らしい考え方」こそ、思想やイデオロギー以前の人間の現実感覚なんだと思います。そこからはじめるしかありません。あらゆる変革運動が挫折したのはそこに根ざしていなかったからだと思います。それに対して上ではガンジーの例を引きましたが、ガンジーはおそらく、一般の人たちが持っている「幅広い見方」と「人間らしい考え方」に内在したがゆえに、その歩みは偉大な歩みとなったのだと思います。

そのためには何が必要か。
シューマッハーによれば、それは知恵(prudentia)と正義(justitia)、勇気(fortitudo)と節制(temperantia)という徳目である。

このなかで核となってくるのが知恵である。
シューマッハー自身の言葉に耳を傾けてみよう。



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 二十世紀の人類が、先人も知らなかった真理を見いだす使命を背負っているとは考えられない。人類の全ての正しい伝統におけると同じように、キリスト教の伝統でも、真理は宗教の言葉で表現されてきた。しかし、その言葉は現代人の大多数にとって、ほとんど理解できないものになってしまった。だが、表現は変えることができる。現に真理を生かしながらそれを実行している現代作家がいる。キリスト教の長い伝統の中でも、四つの基本道徳、すなわち知恵(prudentia)、正義(justitia)、勇気(fortitudo)、節制(temperantia)という、すばらしく行きとどいた現実的な教えがある。これ以上に今日の困難に対処する上でふさわしいものはおそらくあるいまい。
 知恵は、他のあらゆる徳目の「母」ともいわれているのも意味深いが、その意味は今日の分別(prudence)という言葉では伝えることはできない。それはすぐに利益になることを約束してくれないものには目をくれず、評価もしないような、狭量で卑しく打算的な生活態度の正反対を意味する。

 知恵がとくに重要だというのは、善を実行するには現実をよく知ることが先決だという意味である。ものごとをよく知り、それがどういう状態にあるかを心得ている人だけが、善をなしうる。知恵がとくに重要だということは、いわゆる「よき意図」とか「善意」では不十分だということである。善を行うには、われわれの行動の現実の状況、すなわち具体的な人間行動のための「環境」をなす具体的な現実に適合していること、しかもわれわれがこの具体的な現実を偏見のない客観性をもって真剣に受けとることが前提となる。

 しかしながら、現実を「静かに黙想」し、その間、自己中心的な関心を一時的でも抑えるような態度をとることによって、はじめて偏見のない客観性に手が届き、十全な知恵をもつことができるのである。
 分別よりさらに大きなこの知恵があってはじめて、正義と勇気と節制を身につけることができる。節制というのは、足るを知ることを意味する。「知恵とは真理の知識を現実に即した決定に変えることを意味する」とすれば、この知恵を学び、育てること以上に重要なことが今日あるだろうか。知恵さえあれば、文明が生きのびるのに絶対欠かせない他の三つの徳目を深く理解できるようになることは、まず間違いないのである。
 正義は真、勇気は善、節制は美と結びつく。一方、知恵はある意味ではこれら三つの徳をすべて含んでいる。善も真も美も社会生活や個人生活の最高目的とするには漠然とし主観的でありすぎると主張するような現実論、あるいは、真善美は富と権力がうまく手に入ればおのずから生まれてくるとする現実論が、「歪んだ現実論」と呼ばれてきたのは正しい。いたるところで「私には実際何ができるのでしょうか」という質問を受ける。答えは簡単であって簡単ではない。各自が自分の心をととのえること、というのがその答えである。このために必要な手引きは、科学・技術に求めても得られない。科学・技術の価値はすべてそれが仕える目的に左右されるからである。だが、われわれは人類の叡智の伝統の中にこの手引きをいまでも見いだすことができる。
    −−E・F・シューマッハー、前掲書。

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いたるところで「私には実際何ができるのでしょうか」という質問を受ける。

答えは簡単であって簡単ではない。

各自が自分の心をととのえること……世界の中で存在し、生きている自分自身が自分自身と対話し、世界へ開いていくことができれば、「実際には何でもできる」のだと思います。



ただ、しかし……最初の話に戻りますが……レジをこれだけ打っていながらも、いまだにグレープフルーツとオレンジの区別ができません。これにデコポンとかいよかんが混ざってくるともう大変です。

……ということは、氏家法雄自身は、“生活者”としては“まだまだ甘えよ”ってところでしょうか。






⇒ ココログ版 Small Is Beautiful 一般のひとびとの知恵と行動の実力: Essais d'herméneutique