アレント「はじめに言葉ありき」、「はじめに犯罪ありき」

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 たしかに、戦争と革命は記録されている歴史のなかで大きな役割を果たしている。とはいえ、その双方においてともに暴力が支配的な役割を果たしているかぎり、両者とも厳密にいえば政治の領域外で起こっているのである。この事実のために、戦争と革命を経験した十七世紀に「自然状態」と名づけられた前政治状態の跨節が導入された。もちろん、その状態は歴史的事実として考えられたわけではなかった。しかし今日でさえ、その仮説は意味をもっている。それは次のようなことが人々によって認められているという点にあらわれている。すなわち、政治的領域は人間が集団生活をしているところならどこにでも自動的に存在するようになるわけではないということ、また厳密に歴史的状況のなかに発生しているにもかかわらず、実際に政治的ではなく、おそらく政治と結びついてさえいないような出来事が存在するということがそれである。自然状態という観念は、少なくともある一つのリアリティを暗示している。すなわち、十九世紀的な発展の観念というのは、これを因果関係の形式、可能性と現実性の形式、弁証法的運動の形式、存在の単純な整合性や連続性の形式など、いろいろな形式において考えられようが、自然状態の観念は、そのような十九世紀的な発展の観念によっては理解できないようなリアリティを暗示しているのであろう。なぜなら自然状態の仮説は、そのあとにつづく一切のものからまるで譲ることのできない亀裂によって切り離されているようなはじまり(a beginning)の存在を意味として含んでいるからである。
 革命の現象に、はじまりの問題がどのような意味をもつかは明白である。このようなはじまりが暴力と密接に結びついているにちがいないということは、聖書と古典があきらかにしているように、人間の歴史の伝説的なはじまりによって裏づけられているように思われる。すなわちアベルはカインを殺し、ロムルスはレムスを殺した。暴力ははじまりであった。暴力を犯さないでは、はじまりはありえなかった。伝説と受けとられているか歴史的事実と信じられているかは別にして、われわれの聖書的あるいは世俗的伝統のなかに最初に記録されている行為は何世紀も語りつがれてきた。そして、それが語りつがれてきた力強さは、人間の思想が、説得力のある比喩や普遍性をもつ物語を生みだすときに稀に獲得することのできる類いのものである。伝説は次のことをはっきりと物語っている。どんなに人間が互いに兄弟たりえようとも、それは兄弟殺しから成長してきたものであり、どんな政治組織を人間がつくりあげてきたにせよ、それは犯罪に起源をもっているのである、と。「はじめに言葉ありき」という聖ヨハネの最初の一句が人間を救済するための真実を語っているとすれば、「はじめに犯罪ありき」−−「自然状態」という言葉はそれを理論的に純化して言いかえたものにすぎない−−という信条は、人間事象の状態を示すうえで、幾世紀ものあいだ、この聖ヨハネの言葉と劣らないほど自明の真実を語りつづけてきたのである。
    −−ハンナ・アレント(志水速雄訳)『革命について』ちくま学芸文庫、1995年、23−24頁。

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人間の善性を開拓するのが「はじめに言葉ありき」という側面だとすれば、その抜きがたい獣性の存在を示唆するのが「はじめに犯罪ありき」という現象か。

その両者は抜きがたく潜在している。








⇒ ココログ版 アレント「はじめに言葉ありき」、「はじめに犯罪ありき」: Essais d'herméneutique



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