「怒りを原動力」にして新しい「創造」を目ざす活動へ向けて


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※写真は、4/15、羽田発福岡行のJAL便より、東京ディズニーリゾートを辺りを空撮した一枚。





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 「緒方さんの行動のもとになっているエネルギーは何でしょうか?」
 「何だか知りませんけれどもね……」
 数秒の沈黙のあと、緒方さんは続けた。
 「怒りかも知れないですね。何かうまくいかないと、がっかりするよりも怒りが出てくるんですよね。何とかしたいと、こんなことは受け入れられませんと。それはいろいろな形でひどくなったかもしれませんね。これは承知できませんという気持ちですよね」
 「それはやっぱり人権とかそういうことに照らして……」 
 「そんなに難しい話じゃないんです。何かに照らすんじゃなくて、実態がということです。この一〇年で私、癇癪もちになったのかもしれないけれども」
 そう言うと、厳しかった緒方さんの表情が不意に緩み、笑顔になった。
    −−東野真『緒方貞子−−難民支援の現場から』集英社新書、2003年、12頁。

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ツィッターで先週、吠えた連投ですが、少し手直しして残しておきます。

酩酊しないうちに少しだけ……。

「それはオカシイ」と素直に「怒る」ことは僕は必要不可欠だと思う。老人になって「まあ、現実をみろよ」と嘯いても始まらない。素朴な「怒り」は現実を変革にするエネルギーになるはず。

国連難民高等弁務官を勤めた緒方貞子さんは在職中「それはできない」と言われることが一番腹がたったという。やってもないのにはなから「できない」というな! 

それに対する怒りが原動力となって不可能といわれた難事を可能にした。


賢い優等生を振る舞う必要もないし、すべてを悟りきった賢老を決め込む必要もない。
それがおかしいのであれば「おかしい」と立ち上がるしかない。しかしそこで慎重にならなければならないことは、怒りを無邪気にぶちまけてはいけないということ。


マスコミをマスゴミと一括して悟ったような態度とか、(その対象や人物に)「罵詈雑言」を投げつけて「はい、終わり」としてしまう怒りの導き方は、問題を解決することができない。それは僕が一番大嫌いなワイドショーに出てくる知識人たちがさもわかったように「〜ですな」と「まとめる」のと同じやり方でしょう。


今学ばなければならない態度は、その怒りをどのように導いていくべきかということ。
様々な方途があるでしょう。僕は、ツィッターFACEBOOKを初めとするソーシャルネットワークもその一つだと思う。


怒りが炸裂して「東電爆発しろ」的な発言も多々目にします。しかしそれと同じぐらい「それでは解決できない」というのも目にします。


H・アレント(Hannah Arendt,1906−1975)は『人間の条件』のなかで人間生活のあり方を「活動」「仕事」「労働」の三つに分類し、「物あるいは事柄の介入為しに直接人と人とのアダ委で行われる唯一の活動力」としての「活動」を宣揚し、その本質を「自由」であると指摘しました。


「仕事」はそのなかに目的=手段の関係を必然します。そして「労働」は肉体のもつ必然に従うという意味で、「仕事」と同じくいずれも自由ではありません。しかし「活動」はこのような目的=手段の関係や肉体の必然性から解放されているという意味で自由であるとアレントいう。


ではその「活動」の具体的表現とは何でしょうか−−。


アレントによれば、その最初の古典的モデルは古代ギリシアのポリスにおける自由人たちの政治活動に他なりません(奴隷労働に支えられていたというのはひとまず措く)。市民たちは平等なるものとして、説得し、同時に説得され、見、見られ、聞き、聞かれた空間がその「活動」の「場」です。


たしかに私が指摘した言語空間においては、リアルな言語空間以上に目を閉じたい発言も目にします。しかし同じようにそれでは解決できないよ、一緒に考えてみようよと促す発言も目にします。そのやりとのなかで(ヘイトスピーチは除く)、僕たちは新しい注ぎ方を創造することが可能なのではないかと思います。


ツィッターFACEBOOKの言語空間を古代ギリシアのポリス的自由討議の空間と同一視することにはもちろん問題はあるでしょう。そして楽天的といえば楽天的です。が、僕はその楽天性にかけてみたいと思う。3.11のTwitterでのTLを思いだして下さい。都内で難民状態となった人々の声が上がると同時に、そこに救いの手を差し出そうとする声がそれ以上に出てきました。。


イミフなヘイトやら揶揄やらorzなそれも一杯あります。しかし人々が肩書きやら所属する共同体の枠組みを気にすることなく「対等」に「話し合う」ことのできるメディアは、大げさな言い方ですが、日本においては、これがはじめてではないでしょうか……。


そこを賢明につかっていくことが、ジャスミン革命を導いたということは失念してはなりません。


もちろんツィッターには、FACEBOOKなんかと違い匿名性はある程度ありますし、為にするそれもあります。しかし、僕はツィッターで学んだことは、いろんなひととやりとりをするなかで、言葉という情報の背後には必ず生きた人間が存在している、そのことは個人レベルの実感にすぎませんが、学んだような気がします。


もちろん、人の温もりだけでなく、怒りを感じることもありましたが(苦笑


この矜持を自覚することによって、ネットはorzだという本朝共通了解から、ネットであろうが対面コミュニケーションであろうが、人間とキチンと向かい合っていくということを人々が学習することが出来れば、ひとつのヒントになる。先に言及した怒りの向け方を正しく導くことが出来るはずだと思う。


そこじゃないのかなあ。


ツィッターでもFBでもSNSでも何でもいいのですが、機器を介したコミュニケーションであっても、情報を受けとり・発信するのは生きた人間同士というのがその立脚点です。「人間なんてこんなもの」と図式化・パロディ化する既存のメディアはそれができなかった。ならば僕らでやればいいのでは……と。

それが歴史を創っていくということ。


例えば菅直人氏が「オワッター」事は震災対応を見なくてもはっきり分かります。が、大事なのは、その「オワッター」足跡を「アホか!」で済ませない、忘れないということではないでしょうか。


忘れてしまうと「さて、どうするべ」へ進めない。


このフラグの切り方は大切だと思います。


何しろこの国は「話題賞味期限」あり「水に流す」体質ですから尚更かと。


だからこそ、「怒り」を忘れてはいけないし、「怒り」の注ぎ方を誤ってはいけない。



「怒りかも知れないですね。何かうまくいかないと、がっかりするよりも怒りが出てくるんですよね。何とかしたいと、こんなことは受け入れられませんと。それはいろいろな形でひどくなったかもしれませんね。これは承知できませんという気持ちですよね」



そして……。



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 怒りが原動力であるという緒方さんの言葉は、強烈な印象となって私の中に残った。
 慈善活動や人道援助を行う女性に対して、私たちはややもすると「慈母」的なイメージを抱きがちである。緒方さんによく冠せられる「難民の母」という言葉は、そのことをよく表している。べつにそれが間違っているわけではない。緒方さんの人柄を問われて、「細やかな心配り」を挙げる人も多い。しかし、緒方さんのインタビューをしていて私がむしろ感じたのは、問題を解決しようとする強靱な意志と仕事に対する厳しさ、そして卓越した分析力と創造性であった。緒方さんを知る職員の一人は、「緒方さんは危機になればなるほど強くなる」と言った。どんな緊急事態に陥っても、諦めずに新しいアイデアを出し、指示を飛ばすのだという。そうした彼女の行動を支えてきた原動力は、現場を歩くことから生まれる「怒り」なのだ。
東野真『緒方貞子−−難民支援の現場から』集英社新書、2003年、15−16頁。

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彼女の行動を支えてきた原動力は「現場を歩くことから生まれる『怒り』」。


そして「諦めずに新しいアイデアを出し」挑戦していくこと。


これを「活動」空間の中で丁寧にやっていくほかあるまい。






⇒ ココログ版 「怒りを原動力」にして新しい「創造」を目ざす活動へ向けて: Essais d'herméneutique



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