『近道』をさけて『道』を創造していくということ
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「道。」−−いわゆる「近道」は、いつも人類を大きな危険に導いた。そのような近道が見つかった、という福音に接すると、人類はいつも自分の道を離れ−−そして道を失う。
−−ニーチェ(茅野良男訳)『曙光 ニーチェ全集7』ちくま学芸文庫、1993年、69頁。
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いそぎばたらきで恐縮ですが、うえのニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844−1900)の一節はもはや説明が不要なほど明快なレヴェル。
はしょったり、短縮したり、近道で「楽をしよう」とすると、ほんとうに歩むべき道というものを失念してしまうものなんですよね。
さて……
ゴールデンウィークには、わが家恒例の夏の対策?として「ごーや」の苗を植えました。真夏になるとこれが涼しいカーテンになるからです。
ことしてで3年目。
手間はかかるのですけど、生命と向かい合うということ自体「手間がかかる」「手抜きのできない」ことですから「近道」なんてありませんから、毎日、誠実に向かい合うほかありません。
まあ、ついでなので魯迅(1881−1936)の一節もひとつ。
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希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
−−魯迅 (竹内好訳)「故郷」、『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇』岩波文庫、1955年。
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3月から、いろいろと考え直したり、頭にきたりすることの多い毎日ですが、「道」を丁寧に拵えていくしかありませんね。
⇒ ココログ版 「近道」をさけて「道」を創造していくということ: Essais d'herméneutique