「現代の《無邪気な連中》は、権力が一つのものであるかのように、それについて語っている」と困るんだよw

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 現代の《無邪気な連中》は、権力が一つのものであるかのように、それについて語っている。つまり、一方に権力をもつ人々、他方にそれをもたない人々がいる、というわけである。権力はこれまで、典型的な政治的対象であると考えられてきた。いまでは、権力はイデオロギー的な対象であっても、最初はその声が聞きとれなかった場所、教育機関のなかにもしのびこんでいる、と考えられるようになったが、しかし要するに、権力は依然として一つである、と考えられているのだ。けれども、権力は、悪魔と同じように複数ではないのか。《わが名はレギオン、〔われら多きがゆえなり〕》〔「マルコ伝」第五章九節〕、と権力は言うことができるだろう。なにしろ、いたるところ、あらゆる方面に、さまざまな首長、巨大な組織や微細な組織、圧制的な団体ないし圧力団体が見られ、いたるところで、《権威をおびた》声が、きわめて権力的な言説を、傲慢さから発する言説を、はばかることなく聞かせているからである。われわれはそこで、権力は、社会的交流のきわめて些細な機構のうちにも存在する、ということを知る。権力は、単に国家や社会階級や集団のなかだけでなく、流行、世論、映画演劇、遊び、スポーツ、報道、家族関係、個人的交友のなか、さらには、権力に意義をとなえようとする解放の動きのなかにさえ存在するのだ。私が権力的言説と呼ぶのは、言説を受けとる側の人間に過ちがあるとし、したがって、罪があるとするような言説のすべてである。ある人々は、われわれ知識人があらゆる機会に「国家権力」に反対して行動することを期待している。しかし、われわれの真の戦いはほかにある。真の戦いは、複数の権力に対するものであって、それこそ容易な戦いではない。というのも権力は、社会的空間においては複数的であり、歴史的時間のなかでは、それと対称的に永続的でからである。権力は、こちらで追放され、衰えたかと思うと、あちらにふたたび現れる。権力は決して滅びないのだ。権力を打破するための変革をおこなっても、権力はたちまち、新しい事態のもとでよみがえり、芽をふきかえすだろう。権力がこのように持続し偏在するのは、権力が、社会の枠を越えたある組織体に寄生しているからである。その組織体が、単に政治の歴史や有史以後の歴史だけでなく、人間の来歴全体と密接に結びついているからである。人間が存在しはじめて以来ずっと権力が刻みこまれているこの対象こそ、言語活動(ランガージュ)である−−あるいはもっと正確には、言語活動の強制的表現としての言語(ラング)である。
 言語活動は立法権であり、言語はそれに由来する法典である。われわれは、言語のうちにある権力に気づかない。およそ言語というものはすべて分類にもとづき、分類というものはすべて圧制的である、ということを忘れているからである。ordo(秩序=命令)という語は、分類区分することと同時に威嚇を意味する。
    −−ロラン・バルト(花輪光訳)『文学の記号学 コレージュ・ド・フランス開講講義』みすず書房、1981年、10−13頁。

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水曜日は市井の職場の出勤時間が遅いので、昼過ぎから本の整理をしていたら、たまたまむかし読んだフランスの思想家ロラン・バルトRoland Barthes,1915−1980)の著作が本棚の奥から出てきたので……

「なつかしいなあ」

……と思って手に取ったところかなりの衝撃w

学部時代は、古典を読む傍ら熱心に読んだのがいわゆる「フランス現代思想」とよばれるジャンルで片っ端から読んで、それなりには理解しているという自負までもっていたのですが(苦笑、キリスト教学に取り組むようになってから、レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906−1995)を除き、疎遠になっていた所為もあり、通俗的な理解、例えばロラン・バルト記号論、批評家みたいなカテゴリーで止まっていたなあorz……ということを、読み返す中で、理解。

正直なところ、目からウロコといいますか……、くどいですが「かなりの衝撃」。

上に引用したのは、コレージュ・ド・フランスロラン・バルトが披露した開講講義(1977年1月)になるのですが、「言語の権力」という豊穣なテーマを、平易に開陳したことには……、くどいですが「かなりの衝撃」。

バルトは、デリダJacques Derrida,1930年−2004)やフーコーMichel Foucault,1926−1984)なんかに比べると、どちらかといえば、地味というか一段低く見積もられる嫌いが濃厚ですし、マルクス主義的二元論を相克する「新しい」権力論の視座は、まさにデリダフーコーにお任せした方が本道ですが、軽やかなバルトの肉声には、彼らに決して遜色しない本物の「批評=批判」人の面目躍如をみた次第です。

さて……。

本日は、菅直人第94代内閣総理大臣(1946−)閣下の進退がきわまる「ながくてみじかい一日」になりそうなのですね。

はっきり言うけれども、おそらく菅直人さんは、昨日、茂木健一郎さん(1962−)がツィートで指摘したとおり、「菅直人さんの人間性はともかく、『CPU』の性能が申し訳ないが、悪すぎるという印象は否めない。これでは、この困難に対処できない。不信任案を可決すべきだという確信が、より強まった」というのは疑いのない事実です。

Twitter. It's what's happening.

僕も早く退場してもらいたいと思います。


ただ正直なところ、「はやくやめろ」と「この時期に」という両論もよくわかりますので、すごくその判断には「迷う」ところですが、「後にだれがなるんや」の含めて、これをパワーゲームに還元だけはしたくないと思わざるをえません。。

一番心配なのは、菅直人閣下が退場したことで「問題がすべて解決する」という精神的態度なんです。

そんなことで問題が解決するとみることは、まさに19世紀の思考法。

完全無欠な悪人がいて、完全無欠の「虐げられる民」が存在して、完全無欠な「悪を退治する善人」なんて存在しないのですよw

権力はたしかに実力をもって存在しますし、その構図から声を奪われ結果として「虐げられる民」は不可避的に拡大再生産されてしまいます。

だからだまっていてよいわけではありません。

しかしだまっていてよいわけでないと同じぐらい、権力と立ち向かうこと自体もひとつの権力であることを失念してしまうと元の木阿弥以上に劣化してしまうのも事実というわけですよw

そのリスク・負荷の自覚のない限り、「歴史は繰り返す」という寸法=誰がやっても同じというわけ。

酒のんでいるからぼちぼちワケワカメ……っていつものことやないけ!というツッコミは抜きで……、この国の最大の問題は、いずれにしても「愛国無罪」式の「disり無罪」の図式で、まあ、ふるい見方でいえば先に言及した旧態依然としてマルクス主義的二元論ですべてをみている……特に政治家自身がというところです。

別にさあ、菅直人閣下がやめて小沢一郎大先生(1942−)がなろうとも、誰がなろうともですが、そうした二項対立を続ける限り、ダブルバインドに拘束されたサバルタンスピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak、1942−)としてのひとりひとりの「声」は奪われ続けるわけですよw

だから、どのような進路をとるにせよ、政治を生業とする人間にいいたいのはひとつ。

そしてくどいけど、僕は茂木さん以上に、菅直人閣下は「空き缶」のような人間と思っているけれども、それでもなお、いうならば……

「批判して、それで鬼の首をとったと思うなよ」

……ってことです。

二項対立の図式を乗り越えて、何をこれからやっていくのか。

こいつは終わっているから、潰せば問題は解決する……わけないんです。

こいつはおわっているって奴は存在しますよw

もちろん潰したほうがいいんでしょうwww

しかし、こいつは終わっているから、潰したあとは「どうするか」。

権力と言語にかかわる人間はそこを深く省察しながら、動いていかないと水槽の中の波でしかありませんよ(苦笑

さて「どうするのか」。

お手並み拝見いたします。

くどいけれども、19世紀の変革理論の陥穽におちいることで「これで完成よ」ってパワーゲームはもうおしまいにしましょう。





⇒ ココログ版 「現代の《無邪気な連中》は、権力が一つのものであるかのように、それについて語っている」と困るんだよw: Essais d'herméneutique