民主主義は最善の社会を齋す最善の方法ではなく、唯単に最悪の事態を避ける為の消極的=防御方法に過ぎない
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既に述べた様に、民主主義は最善の社会を齋す最善の方法ではなく、唯単に最悪の事態を避ける為の消極的=防御方法に過ぎない。もしそれを最善の方法と考えへたとしたら、民主主義ほど始末に負へぬ代物は他に無いであらう。言ふまでもなく、民主主義は君主、支配者、政治権力などの強者を、その利己心の横暴を抑制する手段として思ひ附いたものである。その意味において消極的=防衛的なのである。機構の隅々に安全弁を備へ、強者の利己心、即ち悪の跳梁を防禦しようといふ訳である。詰り、敵を仮想した思想であり、敵意に備へる思想である。
−−福田恆存「偽善と感傷の国」、『日本を思ふ』文春文庫、1995年、334頁。
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この観点を失念してしまうと恐らく、民主主義は機能しないのではあるまいか。
民主主義そのものから「積極性」を導く出すことは不可能ですし、福田恆存(1912−1994)氏の指摘する通り、「君主、支配者、政治権力などの強者を、その利己心の横暴を抑制する手段として思ひ附いた」「消極的=防衛的」機構に他ならないですから。
そしてこれを荒廃させてしまうのは、そうした横暴行う連中よりも、横暴から身を守られている連中に他ならない。
そうならないようにしたものでございます。
⇒ ココログ版 民主主義は最善の社会を齋す最善の方法ではなく、唯単に最悪の事態を避ける為の消極的=防御方法に過ぎない: Essais d'herméneutique