「そういう考え方もあったか」という驚きにまさるものはない





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 ヨーロッパの個性は、その根拠を知的教養のうちにもっており、決して情緒的性格の違いを尊重するものではない。なぜならヨーロッパ思想では、情緒は身体的に発生するものであって、それは尊重に値するものではなく、尊重に値するのは、知的教養における独自性だからである。そのような知的教養の独自性の尊重は、キリスト教によってではなく、何より大学の討議形式のなかで培われたと思われる。
 言うまでもなくこの討議形式は、古代ギリシアからのものである。しいて言えばソクラテスの「問答法」が起源である。プラトンの時代にはまだ討議形式がもつ個性の育成という側面は意識されなかったし、そのことはのちの時代になっても同じであったが、討議形式を制度としてもたない日本のような国の実状から考えれば、討議形式のもつ効用は、意外にはっきりしていると思われる。
 というのも、討議形式は個々人に、独特の個性のあるアイデアを要求するからである。ちょうど思わぬ技が競技における勝利を導くように、討議で勝つためには、相手が予想しないアイデアが有効となる。そして新しいアイデアをもつためには、ものごとを眺める新しい視点を必要とする。そして新しい視点は、往々にして異なる視点をもつ人々から受ける精神的刺激に負うことが多い。実際、自分の考えに凝り固まってしまうことから逃れる良い刺激というものは、「そういう考え方もあったか」という驚きにまさるものはない。人はこのような経験を積むと、異なる視点をもつ人々の存在を排除せず、むしろ喜ぶようになるものである。こうして討議形式は、それが社会の紐帯として有効にはたらくと、人々の個性を引き出すようになるのである。
    −−八木雄二『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』平凡社新書、2000年、100−101頁。

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人間はうまれおちたまま「人間」に「なる」のではない。
※平等性や尊厳性を否定するためにいっているのではありませんよ、念のため。

人間は、人間世界のなかで「人間」に「なる」生き物なんです。

そしてそれを丁寧に拵えていくのが討議空間としての大学という「場」。

ヨーロッパで誕生した「大学」という制度の独創性もそこにある。

教室で先生が「個性的になりましょう」ってふったら、学生さん皆が「は〜い」と手をあげて応じれば「個性的な人間」に成長できるわけでもないし、それはそもそも平等とも疎遠なあり方ですしね。

だから個性の根拠は、情緒的性格や身体的に発生するものにおかれるべきでないし、それが平等を疎外する要素にもなりません。

だからヨーロッパで誕生した大学は、その根拠を「知的教養」のうちに置き、それを薫発・尊重するように醸成されていったわけです。

そしてその実践が討議。しかしこれをアメリカ流のディスカッションと同義でみてはなりませんでしょう。前者が創造への扉を拓くものであるとするならば、後者は断罪のレース。

たしかに議論として相手に勝つことは必要ですが、同時に、そのことによって、「そういう考え方もあったか」という驚きの精神も不可欠。

なにしろ「哲学は驚きからはじまる」わけですから。

「人はこのような経験を積むと、異なる視点をもつ人々の存在を排除せず、むしろ喜ぶようになるものである。こうして討議形式は、それが社会の紐帯として有効にはたらくと、人々の個性を引き出すようになるのである」。

まあ、日本の大学ではこの辺がスルーされているんだよなあ、と感じるのは僕一人ではないでしょうけれどもネ。







⇒ ココログ版 「そういう考え方もあったか」という驚きにまさるものはない: Essais d'herméneutique