「我々の為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである」の現況……





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……私は漠然と、西洋の考え方では、他者との組み合せの関係が安定した時に心の平安を見出す傾向が強いこと、東洋の考え方では、他者との全き平等の結びつきについて何かの躇いが残されていることを、その差異として感じている。我々日本人は特に、他者に害を及ぼさない状態をもって、心の平安を得る形と考えているようである。「仁」とか「慈悲」という考え方には、他者を自己のように愛するというよりは、他者を自己と全く同じには愛し得ないが故に、憐れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己が抱く冷酷さを緩和する、という傾向が漂っている。だから私は、孔子の「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」という言葉を、他者に対する東洋人の最も賢い触れ方であるように感ずる。他者を自己のように愛することはできない。我々の為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである、と。
 慈悲という仏教系の考え方は、もっと強い、もっと積極的なものだろう。他者は愛さなければならない。しかしそれは憐れみや同情という形となり、そこには、優れたものが劣れるものと接する時には、という条件がつけられているように思う。もし、神とか仏という絶対者を想定して、現世のマイナスが来世において、または神の支配する理想社会において償われる、という確信を予定するのでなければ、我々は絶対に他者を自己と同様に愛することはできないし、また自己を殺してまで他者を憐れむこともできない。「死」について語ることを拒否し、「現世」の秩序のみ考えた孔子の立場では、自己と他者との関係を、「仁」という寛容な言葉で規定し、自分の望まないことを他人に押しつけるな、という最低法則をもうけたことは当然であったと思う。そこには、現世において、利己心を核として生きている人間の関係に基礎を置くところの、消極的な他者との結びつきの安定した形が設けられている。しかしそこから、どんな秩序を求めることができるだろう? 「礼」というような節度によって、上下の秩序の安定を予定することしかできず、利己的な人間と人間との間の冷酷な区別感の消滅する希望は極めて薄いように思う。孔子はレアリストである。
    −−伊藤整「近代日本における『愛』の虚偽」、『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫、1981年、140−141頁。

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文芸評論家伊藤整(1905−1969)が「近代日本人の発想の諸形式」で示したした日本人の発想形式の見取り図にはもちろん、問題もあるし、その類型化によって、彼自身が、西洋的なるものを全肯定し、東洋的なるものを全否定しようとしたわけではないけれども、そこで暴かれた「消極的な」エートスというものは、それでもなお、否定することは難しいのではないかという感はあります。

「人にかくせられんと思うことを人に為せ」という黄金律を一つの積極性とみるならば、「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」という名辞は、一つの消極性とみることができます。そしてそれぞれに長所短所があるわけですが、やはり本朝はどこまでもいっても、後者が土台となっている精神文化。
※くどいですが、どちらがいいという議論ではありません。

しかし「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」が有効に機能するためには、いくつかの条件が必要不可欠となります。

たとえば、「他者を自己のように愛することはできない」という消極性は、「他者に対する冷酷さを抑制」が必要となり、そこから具体的な行動が出てきますし、「礼」というような節度も同じだと思います。

ただ、最近、世間……「社会」じゃなくて「世間」ですよ、一応w……をみるにつけ、その条件とか発動に至る経緯が割愛されたまま、その名辞のみが先行するといいますか、一人歩きしているような感を強く抱きます。

積極的に関わることができないとしても消極的に関わることを智慧としたのであれば、それは関わらないという無関心とは違うと思うのですけどねぇ。

本来的に「利己的な人間と人間との間の冷酷な区別感の消滅する希望」が薄い土壌ですから、その辺の感性を丁寧にとぎすませていかないと、うまく機能しないはずなのですが……ふぅうむ。







⇒ ココログ版 「我々の為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである」の現況……: Essais d'herméneutique


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