出家することは、本来、世俗の名誉、名声、利益など一切をかなぐり捨てて、社会の最底辺に置かれた人たちと同じ立場に立つことであった……





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 また、『サンユッタ・ニカーヤ』(内容別に分類された教えの集成)でも、次のように述べている。

 多くの呪文をつぶやいても、生まれによってバラモンとなるのではない。〔バラモンといわれる人であっても、心の〕中は、汚物で汚染され欺瞞にとらわれている。クシャトリヤ(王侯・武人)であれ、バラモンであれ、ヴァイシャ(庶民)であれ、シュードラ(隷民)であれ、チャンダーラ(施陀羅)や汚物処理人であえれ、精進に励み、自ら努力し、常に確固として行動する人は、最高の清らかさを得る。このような人たちがバラモンであると知りなさい。(第一巻、一六六頁)

 呪文を唱えるなどの宗教的祭儀を司っていたバラモン階級について、その生まれだけで清らかだとは言えない、その内心は、汚物で汚れているとまで言い切っている。
 その一方で、不可触民とされたチャンダーラでも、その行いによって「最高の清らかさ」(paramam suddhim)を得ることができると断言している。
 釈尊は、出家して袈裟を着ていたが、その袈裟はチャンダーラたちが身に付けていたものである。袈裟は、「薄汚れた色」、あるいは「黄赤色」を意味するサンスクリット語のカシャーヤ(kasaya)を音写したものである。その心は、墓地に捨てられた死体をくるんでいたものである。死体が猛獣に食べられた後、布の破片が散らばっているのを拾い集め、洗ってつなぎ合わせて衣にしていたのだ。死体の体液の染みで汚れ、黄赤色になっていることから、その衣はカシャーヤと呼ばれていた。あるいは、パーンスクーラ(pamsu-kula 拾い集めたぼろ布で作った衣)と言われることもあり、それは「糞掃衣」と音写された。
 中村先生は、「仏教では意識的に最下の階級であるチャンダーラと同じ境地に身を置いたらしい。仏教の修行僧は袈裟をまとっていたが、袈裟をまとうことは、古代インドではチャンダーラの習俗であったからである」(『原始仏教の社会思想』七七頁)と言っておられる。
 出家することは、本来、世俗の名誉、名声、利益など一切をかなぐり捨てて、社会の最底辺に置かれた人たちと同じ立場に立つことであった。外見や生まれによってではなく、行いによって、最高の清らかさを得る在り方を求めたのである。
 このように、釈尊は人を賤しくするのも、貴くするのも、その人の行為いかんによるとして、「生まれ」による差別を否定したのであった。
    −−植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』中公新書、2011年、15−16頁。

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インドの原始仏教における出家の意義を紹介した一節ですが、これれがのちに専業集団化するなかで、「社会の最底辺に置かれた人たちと同じ立場に立つこと」という意義がうすれ、「世俗の名誉、名声、利益など一切をかなぐり捨て」ることが、世間から超脱することとしての「出世間」=閉鎖的集団化することと誤解されて受容・流通・権威化してしまったことはひとつの不幸かも知れません。

もちろん単純に批判するわけではありませんが。

しかし、「世俗の名誉、名声、利益など一切」がごった煮している世間から離反するのではなく深く内在することによってそれに拘らないという観点は踏まえておく必要はあるかと思います。

加えて、ミスリードされた「出世間」が、世間や国家の役に立たないとして廃仏毀釈の理由に掲げられることが多かったことも忘れてはならないのだろうし、僕は国家や世間に「有用」であればOKとする劣化したプラグマティズムには全く興味はないけれども、そうなるとこんどは「いやいや、役に立つにんですよ」って迎合する連中もわんさかでてきたことが、たとえば近代日本の宗教史であったことは、宗教とは何かを考えるうえでは大事なことなんじゃないかと思いますが……。

いずれにしても、「壮大な伝言ゲームの果てに」という帯の植木雅俊氏(1951−)の近著『仏教 本当の教え』(中公新書)を読み始めたところですが、なかなか知的スリリングに満ちた一冊です。









⇒ ココログ版 出家することは、本来、世俗の名誉、名声、利益など一切をかなぐり捨てて、社会の最底辺に置かれた人たちと同じ立場に立つことであった……: Essais d'herméneutique


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