「本質」という虚構に頼って、それによって分節し出された存在者の世界は要するに虚構の世界、妄想に浮ぶ仮象にすぎない






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 「本質」ぬきの文節世界の成立を正当化するためにこそ、仏教は縁起を説くのだ。だが縁起の理論は、理論的にはいかに精緻を極めたものであっても、実践的にはなんとなくもの足りないところがなくはない。この現実の世界でわれわれが実際に交渉する事物には、縁起の理論だけでは説明しきれないような手ごたえがあるからだ。大乗仏教の数ある流派の中で、この問題に真正面から、実践的に取り組もうとしたのが禅である、と私は思う。
 禅も「本質」など絶対に認めない。「本質」という虚構に頼って、それによって分節し出された存在者の世界は要するに虚構の世界、妄想に浮ぶ仮象にすぎない。それなのに、現実の事物にどっしりした手ごたえがあるとすれば、それはもともと、「本質」を通した存在文節のほかに、いわばそれと密着して、それとは全く異質の、「本質」ぬきの文節が生起しているからであるに違いない。「本質」に依る凝固性の文節ではない、「本質」ぬきの文節が生起しているからであるに違いない。「本質」に依る凝固性の文節ではない、「本質」ぬきの、流動的な存在文節を、われわれ一人一人が自分で実践的に認証することを禅は要求する。
 そしてこのことは、当然、言語にも深く関係してくる。なん遍も繰り返したとおり、コトバは元来、「本質」喚起をその本性とするからである。つまり「本質」を通さない存在文節とは、もともと「本質」を喚起するように作られているコトバを、「本質」を喚起させずに使う、ということだ。
 老師が手にした杖を高々と振り上げて、さあこれをなんと呼ぶか、言ってみろという。杖であると言えば、「空」が凝結してしまう。杖でないと言えば、経験的事実に背く。現に老師に津でなぐられればたしかに身にこたえがある。ということは、杖でないことはない、つまり杖であるということだ。ここに至って切羽詰った学人は「転語」を発せざるを得ない。つまり自ら「本質」の影もない境位に身心を置いて、「本質」的でない仕方で杖を分節し出さなければならない。このような非「本質」喚起的な言語の用法、存在の非文節的文節については、語るべきことが多いが、いまはこれ以上語らない。後で主題的にこの問題を論じる機会があるので、ここではこのまま先に進むことにしよう。
    −−井筒俊彦『意識と本質 精神的東洋を求めて』岩波文庫、1991年、25−26頁。

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井筒俊彦先生(1914−1993)の禅と唯識への傾倒には、正直なところ「若干」の違和感があるのですが、それでも、その営みの全体像を毀損することは全くなく、読み直すたびに驚くわけですが、『意識と本質』の冒頭で素描しているコトバのもつ「本質」喚起機能に、やはり我々現代人も多かれ少なかれ、影響を受けているんだよな……という自覚をもつことは必要不可欠のようですね。

昨日はありもしない『兎角亀毛』を現前させてしまう言語の問題について紹介しましたが、そのひとつの核となるのが、コトバの「本質」喚起可能ですね。

そうした似非存在論にNoを突きつけた論理を、おそらく「空」と読んでいいのでしょうけれども、本質実在論イデオロギーが……この文章でも指摘されておりますが経験的事実に背くという意味ではない意味での……「虚構の世界」「妄想に浮ぶ仮象」に過ぎないということを深く認知すべきだし、ひょっとするとそれは釈尊在世時代よりも「濃厚」になっているのではないだろうかと危惧するばかりです。

ともあれ、そうした「虚構」「妄想」に執着しないこと、そしてそれに囚われている問題に目をそむけないこと……単純なようですが、ここを大切にするしかありませんね。










⇒ ココログ版 「本質」という虚構に頼って、それによって分節し出された存在者の世界は要するに虚構の世界、妄想に浮ぶ仮象にすぎない: Essais d'herméneutique


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