存在しないものも存在するかのように思い込みがち





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 人に差別があるかのように世間で言われているのは、人間が勝手に言葉で規定しただけであると、釈尊は『スッタニパータ』で次のように言っている。

 身体を有する〔異なる生き〕ものの間ではそれぞれ区別があるが、人間〔同士〕の間ではこれ(区別)は存在しない。名称(言葉)によって、人間の間で差別が〔存在すると〕説かれるのみである。(一一八頁)。

 私たちは、言葉によって逆規定されて、存在しないものも存在するかのように思い込みがちであるが、釈尊は人間における差別が言葉による逆規定によるものであって、人間には本来、差別はいと断言している。
 仏教では「有」(bhava 存在)を種々に分析しているが、その中に「名有」というものがある。「名有」とは、「兎の角」を意味するシャシャ・ヴィシャーナ(sasa-visana)や、「亀の毛」を意味するクールマ・ローマ(kurma-roma)のように言葉(名)のみが存在していて、現実には存在しないもののことである。ところが、われわれは言葉によって、いかにもそれが存在するかのように錯覚してしまう。それを身近な例で教えたのが「兎角亀毛」であった。
 ここで言う、「人間の間の差別」というのも、「兎角亀毛」と同様、言葉によって存在するかのように思い込まされているのであり、そんなものは本来、存在しないのであると述べている。ここの人間(パーリ語 manussa)を、デンマークパーリ語学者V・ファウスベルはmenと英訳しているが、それでは女性(women)が排除されているかのごとき誤解を与えかねないので、human beings(人間)と訳した方が無難であろう。manussaは、itthi(婦人)、あるいはpurisa(男)という語と複合語を作り、それぞれ「女の人」(manussa-itthi)、「男の人」(manussa-purisa)という意味になる。従って、manussaだけでは、男女を区別しない「人間」を意味しているのである。
    −−植木雅俊『仏教 本当の教え』中公新書、2011年、18−19頁。

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しらないうちに僕たちは「言葉(名)のみが存在していて、現実には存在しないもの」を現実に存在「せしめて」いるんじゃアないだろうか。


それは権力理論に適応したフーコーMichel Foucault,1926−1984)は、社会の位置づけに応じた身体を訓練(=ディシプリン)によって形成してゆく陥穽を鋭く突いた。

根拠ではなく、言葉によって分断され、それが習慣によって「実体」化させられてしまった構造を温存させていく「生−権力」(bio-pouvir)。

知らないうちに拘泥して生きているのが人間の実情なんだろうけど、それは臨床観察者が記述すれば「妄想癖」って話しになるんだろうな((((;゚Д゚)))))))

虚構された「兎角亀毛」が持つ暴力の問題を真っ正面からとらえるほかない。








⇒ ココログ版 存在しないものも存在するかのように思い込みがち: Essais d'herméneutique


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