国民的追憶に関しては、哀悼は勝利以上に価値あるものです







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国民的追憶に関しては、哀悼は勝利以上に価値あるものです。というのも、哀悼は義務を課し、共通の努力を命ずるのですから。
    −−エルネスト・ルナン(鵜飼哲訳)「国民とは何か」、エルネスト・ルナンほか(鵜飼哲ほか訳)『国民とは何か』インスクリプト、1997年、62頁。

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見落としがちな観点なので少し紹介しておきます。

19世紀フランスの宗教史家エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan,1823−1892)は1882年に行った講演「国民とは何か」のなかで、国民は種族や言語、宗教や居住地理といった「自然的基盤」のうえに成立するものではなく、「日々の人民投票」にその根拠が存在すると喝破したことはよく知られている。

しかし同時に人々は、公共へ参与することによって国民として外から調教されるだけでなく、「すべての個人が多くの事柄を共有」することで内側かも調教されていく(みずからしていく)ことによって国民的「連帯心」を形成する。

そしてその中核に位置するのが「哀悼」という「国民的追憶」という装置。これはフランスのような便宜的な共和制を用いようとも、血の団結を「想像」するドイツのような帝政を用いようとも同じだ。

どのような形態をとろうとも「国民国家」が一種の誓約共同体である限り、それを強化する「共同の哀悼」という文化的行為は欠かせないということ。

そして「勝利」の記憶よりも「哀悼」の記憶が、その雰囲気を醸成するうえでは役者が一枚うえということだ。12月8日よりも8月15日にこそ沸点に達することを想起すればたやすくその経緯が理解できる。

さて……具体的には「何が?」

……などと野暮なことには言及しませんけれども、ここ数ヶ月、その粘着してくる空気に息苦しさを覚えるのはおそらく、僕一人ではあるまい。



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 記憶、公共性、そして記憶の創造のためのテクノロジー技術に対する省察が、20世紀を通じて存在し続けていたことに疑いはない。しかし、以下のように論じてみることもあながち無茶ではあるまい。1980年代の後半から、とりわけ1990年代になって、私たちはふたたび公共の記憶(パブリック・メモリー)のあり方についてひたすら関心を寄せるようになったと。多くの記憶が、ホロコーストヒロシマ沖縄戦植民地主義、征服、奴隷制、ヴェトナム、南京大虐殺、「慰安婦」など、深い傷を残す(トラウマティック)事件や時代を刻んでいる。そうしたさまざまな記憶を生み出しているのは、かつて19世紀から20世紀初頭にかけて、公的な記憶(パブリック・メモリー)を作成する技術において、支配的な力を及ぼしている現場、すなわち、博物館、記念碑、記念日、教科書、一般向けのさまざまな読み物、映画、などである。
    −−タカシ・フジタニ(梅森直之訳)「(思想の言葉)公共の記憶をめぐる闘争」、『思想』1998年8月、岩波書店、1998年、3頁。

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⇒ ココログ版 国民的追憶に関しては、哀悼は勝利以上に価値あるものです: Essais d'herméneutique



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国民とは何か
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