「喰わぬば餓死する恐あるから」食べるというのと、「物を喰うにさえ美味を楽むという望を以て」するの違い……





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人間の行為の動機は二あり
 いったい自由というは決して自分勝手な事をする意味ではない。即ち放肆とは違う。ルソーの説はともすれば人間と動物との区別を忘れ勝ちであったと思われる。彼は動物社会には何の制限もなく、喰いたい時に喰い、眠くなれば寝る、他より何ら制限を受けぬところを以て自由の如く説き、太古の有り様を以て人間社会の理想としたのである。さればルソーがその著書を友人のヴォルテーアに贈った時、後者の書いた挨拶の書状に名著は喜んで拝見したが、御教訓の趣を実行し兼ねることは甚だ遺憾に存ずる。老生既に七十の齢を越えたれば、貴兄の教えらるる如く、今更四ツ這いになって歩くことも致し兼ねると答えたという話がある。動物社会には我々の尊ぶ自由というものはないのであろう。
 人間が何事を行うにも必ず二の動機の何れか一によりて為すものである。一は希望、一は恐怖である。物を喰うにさえ美味を楽むという望を以てするか、然らざれば喰わぬば餓死する恐あるからである。学問するにも偉い者になりて立身するを希望するのと、学校に通わねば親に叱られたり他人に笑われたりするから恐からする。商売するにも政治運動するにも、詮じつめればこの二つの動機の何れかによりて人は動いている。希望を以てすることを仮りに積極的行動と名づくれば、恐怖の念より為すことを消極的行為というても可い。積極に出る行為をすることは取も直さず自由の意思によりて動くということになり、消極的に出ることは自己以外の威力に強制されて為るので、独立自由の人格の好まない所、甘んじない所、止むを得ざること、謂わば脅迫され強られて為る如きものである。政治に就ていうも同じ税を払うにも村会なりあるいは議会なりに於て、自分なりあるいは自分が好んで選び出した人が承諾して課する税ならば、これ自由の意思を以て定めた税である。その用途も自分自らが選んで出した者の承諾した上に使うならば、これまた自由の行為というべきものである。これが昔のように自分は一向承知しないにも拘らず、強いて財産の一部を捲き上げたり、あるいはこれを自分の一向賛成せぬことに用うれば、自由のない国家として、今日より見れば専制、独裁、野蛮の政治と非難さるる訳である。
    −−新渡戸稲造「デモクラシーの要素」、『実業之日本』22巻3号、1919年2月。

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新渡戸稲造(1862−1933)が行為の動機を二つに分けることの「還元主義」的側面や、希望に対する楽天的人間観を指摘することは簡単だけど、そこには興味がないのでひとまず横に措き、そして何より新渡戸は、自由の問題を社会システムとしてのデモクラシーの基盤としての自由に注目しているから最後のところに注目したい。

まず、動機論から、新渡戸は、制約(恐怖)をうけてなす立場を「消極的行動」、自ら構想して望んで(希望)おこなう立場を「積極的行動」として類型化している。

たとえば、食事一つにとっても「喰わぬば餓死する恐あるから」食べるというのと、「物を喰うにさえ美味を楽むという望を以て」するのでは、同じ行為であったとしてもその内実は大いに違ってくる。

前者が外面的強制によって制約された立場であるとすれば、後者は内発的自律によって規律していく立場であると見て取ることが出来る。

そしてこれは人間の内面だけの問題だけに限定され得ない課題として、個人と共同体の関係として類比していく。税の徴収・運用を強制とみるのか、それとも自らの選択によるコントロールとみるのかというものの見方を当てはめていくと、自由がないのか・あるのかという判断がつくという話しである。

そしてそれが具体的な形態をとるとき、消極的立場は、専制、独裁、野蛮の政治となり、積極的立場は、デモクラシーの形態を選択する。

大正デモクラシーの全盛期の言及なんですが、それにしても「時代“性”」を勘案するならば、かなり過激な議論だけど、実にわかりやすい論旨。

しかし、「専制」、「独裁」とまではいわなくても「野蛮の政治」であるのは、90年以上立った現在でもあんまりかわらないわけですけどねぇ。

まあ、これは制度や運用の状態云々よりも、それを支えるエートスの問題なんだろうけれどもorz








⇒ ココログ版 「喰わぬば餓死する恐あるから」食べるというのと、「物を喰うにさえ美味を楽むという望を以て」するの違い…… : Essais d'herméneutique



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