覚え書:「これが言いたい:「大衆迎合」としたり顔で断罪しても意味がない=北大大学院准教授・吉田徹」、『毎日新聞』2012年1月19日(木)付。



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これが言いたい:「大衆迎合」としたり顔で断罪しても意味がない=北大大学院准教授・吉田徹

 ◇ポピュリズム生む背景直視を
 「政権交代のある民主主義」が早くも失望に変わった中で、日本政治におけるポピュリズムの台頭を懸念する議論が目立ってきた。

 確かに、ポピュリズム政治は「大衆迎合」「衆愚政治」などと、よく批判される。しかし、断罪したからといってポピュリズム政治が雲散霧消するわけではない。まずは、なぜ発生するかを問うてみることが必要だ。

 歴史的にみて、ポピュリズムは既存の政治に対する信頼が揺らいだ時に発生する。政治が主権者たる「人々」の欲求や欲望を満たすことができない時、人々の政治不信は高まる。

 事実「失われた20年」は際限なく延長されて、閉塞(へいそく)感は強まる一方だ。意識調査では有権者の2人に1人は「政治家を信用していない」と答える。代表民主制は政治家が「人々」を代表していると「人々」が感じなければ円滑に機能しない。

 政治の失墜で生まれるのが、ポピュリズムだ。ポピュリズム政治は議会に陣取る政治家への否認を原動力に、「与野党問わず党利党略に明け暮れ普通の人々(庶民)のことを考えていない」と主張する。そして、議会や官僚制などわかりやすい権力の在りかを道義的な「敵」として非難し、人々を動員しようとする。経済危機で中間層の没落が現実となり、政治の無策にいら立つサイレント・マジョリティーにとって、カリスマ政治家によるメッセージは魅惑的に映る。

 ポピュリズム政治は、具体的争点に固執はせず、政治のあり方そのものを非難する運動だ。だから公約の中身は必要性から考えられたものではない。そしてマスメディアを含め政治家や政党に対する不信を募らせるのが作法となっているような環境でポピュリズムはますます勢いにのる。

 人々はポピュリスト政治家の政策的主張に賛同しているのではなく、おそらくポピュリストが象徴しているものに強くひかれているのだ。「ポピュリズムは民主主義の敵だ」としたり顔で批判している政治家は、自分の胸に手を当て、それを生み出しているのが自分たちではないのか、と自問すべきだろう。

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 民主主義が危機に陥っているからこそ、ポピュリズムが立ち現れる。複雑なことに、そのもたらすものは決して負の効果に限らない。

 ポピュリズム政治には、既存の政治の対立軸を揺り動かし、民主政治に緊張感をもたらし、人々を今一度政治へと向かわせるチャンネルを作るような効用もある。窒息死しそうな民主政治の起爆剤であり、場合によっては堕落しきった政治システムを鍛えなおし革新をもたらし、より優れた代表性を備えた政治を生み出すきっかけを提供し得る。

 だが、それはやはり危うさと裏腹である。ポピュリズムのもうひとつの特徴は、権力批判を糧にしていることにある。権力を奪取した途端に現実の壁にぶつかり穏健化すれば、「人々」の政治に対する失望に拍車をかけることになる。民主政治の本当の危機はその時、始まるのかもしれない。

 少なくとも今、求められるのは、ポピュリズムを唾棄して事を済まそうとするのではなく、その先にある不気味な「人々」の欲求や欲望を、政治がきちんとすくい取り、必要があればそれらはなぜ否定されなければいけないのかを説く勇気と知恵を政治家が持つことだろう。そうでなければ、ポピュリズム批判は天に唾するも同然である。

よしだ・とおる 東大総合文化研究科を経て現職。パリ政治学院非常勤講師。著書に「ポピュリズムを考える」。
    −−「これが言いたい:「大衆迎合」としたり顔で断罪しても意味がない=北大大学院准教授・吉田徹」、『毎日新聞』2012年1月19日(木)付。

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