われみずからを知るということがいまだにできないでいる。それならば、この肝心の事柄についてまだ無智でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと
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もし誰かがこれらの怪物たちのことをそのまま信じないで、その一つ一つをもっともらしい理くつに合うように、こじつけようとしたまえ! さぞかしその人は、なにか強引な智慧をふりしぼらなければならないために、たくさんの暇を必要とすることだろう。
だがこのぼくには、とてもそんなことに使う暇はないのだよ。なぜかというと、君、それはこういうわけなのだ。ぼくは、あのデルポイ社の銘が命じている、われみずからを知るということがいまだにできないでいる。それならば、この肝心の事柄についてまだ無智でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと、こう僕には思われるのだ。だからこそぼくは、そうしたことにかかずらうことをきっぱりと止め、それについては一般にみとめられているところをそのまま信じることにして、いま言ったように、そういう事柄にではなく、ぼく自身に対して考察を向けるのだ、−−はたして自分は、デュポンよりもさらに複雑怪奇でさらに傲慢狂暴な一匹のけだものなのか、それとも、もっと温和で単純な生きものであって、いくらかでも神に似たところのある、デュポンとは反対の性質を生まれつき分け与えられているのか、とね。
−−プラトン(藤沢令夫訳)『パイドロス』岩波文庫、年、16頁。
ステファヌス版229E−230A
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1月30日になってから言うのもナニですが、年が明けてから、哲学の古典をもう一度歴史順に読み直し始めているのですが、プラトン(Plato,424/423 BC−348/347 BC)の初期対話篇で紹介されているソクラテス(Socrates,c. 469 BC−399 BC)の肉声(にちかいもの)をゆっくり読み進めると、そこには、豊穣な人間の息吹というものを感じざるを得ません。
うえに引用した一文など、まさに知を知識ではなく、是非分別として捉えよう、そして「自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと」なんて孔子(Confucius,551 BC−479 BC)のいう「鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂うべし」(『論語』雍也第六)と肝胆相照らす発想であり、そこには思想や哲学がひとつのイデオロギーへと先鋭化する以前の豊穣な「人間そのもの」が見えてくるんですよね。
今年はいろいろと忙しい年にはなりそうなのですが、コメンタリーをもう一度いれつつ、年末までは、これもひとつの形に仕上げてみたいものです。