覚え書:「今週の本棚:持田叙子・評 『南方熊楠大事典』=松居竜五、田村義也・編」、『毎日新聞』2012年2月5日(日)付。
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今週の本棚:持田叙子・評 『南方熊楠大事典』=松居竜五、田村義也・編
◇持田叙子(のぶこ)・評 『南方熊楠(みなかたくまぐす)大事典』
(勉誠出版・1万290円)
◇科学と神秘を結ぶ思想世界をひらく
南方熊楠(一八六七〜一九四一年)は、底しれぬ魅力をたたえる近代の知で、読書人ならだれでも一度は、この存在に近づいてみたくなる。
博物学者にして民俗学者、生物学者であり、古今東西の文献に自在に通じる。学問の実践にも情熱的で、地域の生態系のかなめとしての森を守る運動に、力をそそいだ。エコロジーの先駆者でもある。
近代の知としての彼の大きな特色は、早く欧米で最先端の自然科学をまなびながら、一方で、前近代的な神秘へのゆたかな感性と畏れを失わなかったこと。むしろ彼は、科学と神秘を対立するものでなく、結合し補完しあうものととらえた。そこにこそ、昔の人の知恵を切りすてる浅薄な科学合理主義とは異なる、新しい叡智(えいち)がはなひらくと信じた。
<熊楠>の名にも象徴的なように、彼は自然を分析対象として、客観化なんかしていない。自分も、自然の一部−−そう心えて顕微鏡をかざした。土や虫、樹々の呼吸に息をあわせた。衝撃的な思考、つい人間中心に考える概念に、アッパーカットを喰(く)らわされる。
こんな風に刺激のアロマにみちる熊楠の著作だけれど、前述のように分野が広範、そして博覧強記をはらむ文脈が多義的にうねり、うずまき、飛躍するので、ひとりでは心細い。深い森に呑(の)みこまれてしまいそう。
思いきり迷うのも醍醐味(だいごみ)ではあるが、このたび、民俗学・生物学・比較文化・説話学など諸分野の学者が最新の研究成果をいかし、熊楠の思想世界を総合的に照らす本事典が刊行された。熊楠へのすぐれたサーチライトの集大成として、ぜひご紹介しておきたい。
事典、と銘うつように、研究者のみならず一般読者も活用できるよう、明解にひらかれているのが本書の特長。いたずらに熊楠を巨大・神格化することなく、事実を重視し、各分野よりわかりやすく説明される。情報もゆたかに提供されているのが、入門者にもまことにありがたい。
六部構成。第一部は「思想と生活」とし、<神社合祀反対運動><事の学><メディア戦術><変形菌><夢><性と愛>など四〇のトピックを設け、学問思想の重要な柱を解説する。ここがまず白眉、読みごたえがある。
たとえば<南方マンダラ>の項目は、あらためて感動的。熊楠は、変形菌の生態にとくに注目した。変形菌とは、土ともコケ、虫とも変化し、一部を静止(死)させつつ生きる。千変万化、変容し、死につつ生きるこの原始生物のエネルギーに熊楠は、無数の生滅の循環をはらむマンダラ−−宇宙の原理を感受する。
第二部は「生涯」、伝記である。奇人の熊楠には伝説がまつわるが、その霧をはねのけ、精緻な調査によりつづられる。若き日のアメリカ・イギリス滞在にかんする資料も豊富。
第三部は「人名録」。熊楠と親交のあった、あるいは特筆すべき一〇六名を解説する。同性愛の親友もいれば、ロンドンで知りあった孫文、柳田國男、宮武外骨らの名が目をひく。
第四部は「著作」篇。英国で二〇代で発表した「東洋の星座」をはじめ約四〇篇の論考の書誌と概要を紹介する。第五部は、研究史・資料の解説。第六部は「年譜」でむすばれる。
懇切な本書を一読すると、熊楠のすべてがわかった気になるけれど、それは剣呑(けんのん)。本書を手引きにナマの熊楠を読むこそ、<事典>の正しい使い方。ちなみに稿者は目下、本書を道しるべに、熊楠の日記に突入中です。
−−「今週の本棚:持田叙子・評 『南方熊楠大事典』=松居竜五、田村義也・編」、『毎日新聞』2012年2月5日(日)付。
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http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20120205ddm015070030000c.html