「見よ、神ハ谷中ニあり」



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一九一三(大正二)年二月一二日付、島田熊吉・宗三宛書簡
見よ、神ハ谷中ニあり。聖書ハ谷中人民の身ニあり。苦痛中に得たる智徳、谷中残留人の身の価ハ聖書の価と同じ意味で、聖書の文章上の研究よりハ見るべし。学ぶべきハ、実物研究として先ヅ残留人と谷中破壊との関係より一身の研究をなすべし。徒らニ反古紙を読むなかれ、死したる本、死したる書冊を見るなかれ。(聖書ニくらべて谷中を読むべきなり)
    −−田中正造田中正造全集』第一九巻、岩波書店、一九八〇年、165頁。

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歴史学者鹿野政直氏は、近代日本の人権思想史上で「金字塔を打ちたてた」のは、田中正造(1841−1913)であると指摘している。このことに全く異論はない。

正造は、日本で最初の公害事件といわれる足尾鉱毒問題に、文字通り身を晒して闘った人物として有名である。しかし、正造の実践には「聖書」の思想が深く刻まれていることはなじみが薄いかも知れない。

1902年、川俣事件公判の際にあくびをした罪で有罪判決を受け、巣鴨牢獄に入獄したときが正造の聖書との出会いである。内村鑑三(1861−1930)が新約聖書を差し入れ、正造はむさぼるように読んだという。以後、聖書の言葉をたびたび引用するようになり、正造の思想と実践とに深い影響を与えていく。

正造にとって聖書とは何だったのだろうか。
冒頭で紹介した書簡では「死したる本、死したる書冊を見るなかれ」と指摘している。また1909年の日記では「聖書を読むよりハ先ヅ聖書を実践せよ」「聖書を空文たらしむるなかれ」とも記している。

この言葉に耳を傾けると、聖書で描かれたイエス・キリストは、“徹底した無私の実践のひと”と肌身で理解したように推察される。

1904年から正造は谷中村に住むようになる。ただなかにありつづけることで、正造はイエスに倣い、その生を生きようとし、残留民と共に生き闘う中で、苦難を受けている民衆の姿に神の存在を感じ取ったと思われる。

「見よ、神ハ谷中ニあり」。

足跡を振り返ると、正造自身が衆議院議員でもあったことから、政治の世界での改善からその歩みを始めたが、前年に議員を辞職し、その年末に明治天皇に直訴している。

その後、聖書と出会うわけだが、?議会中心から被害地の農民中心へ、?「民権」問題から「人権」問題へ眼差し、?そして底辺に置かれたひとびとの人権に注目……と眼差しが大きく転換する。

そしてその正造を支えたのは聖書の一句一句の言葉である。

たしかに正造は「キリスト教」に「入信」はしなかったし、その理解は伝統的なキリスト教のそれではない。しかし、正造の聖書の理解は、実践的であり、文字通り最も苦しむ人々の眼差しから「人権」を捉え直し、公害事件(環境問題)に関しても生命の次元から再考しようとした取り組みは、稀有な事例と思われる。

亡くなる前年の1912年3月の日記には次のように書かれている。

「人権また法律より重し。人権に合いするは法律にあらずして天則にあり」

正造にとって、人権とは法律で規定される「権利」のひとつではない。

ややもすると、人権が単なる「権利論」として受容される嫌いが強い日本社会。たしかにその側面は否定できないが、それで全てでもない。

聖書に薫発を受け、そして実践し、人権とは人間が生きるということのトータリティと喝破した正造の事跡は改めて評価されるべきだろうと思う。

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