覚え書:「今週の本棚:加藤陽子・評 『近代東京の私立中学校−−上京と立身出世の社会史』=武石典史・著」、『毎日新聞』2012年04月15日(日)付。



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今週の本棚:加藤陽子・評 『近代東京の私立中学校?上京と立身出世の社会史』=武石典史・著
ミネルヴァ書房・6300円)
 ◇明治教育、弾力性の奇跡を支えたもの
 盆暮れの2回の帰省ラッシュはおなじみの光景だが、大渋滞をテレビで見るたびに、この民族大移動にもいつか終わりがくるのではないかとの思いもよぎる。高度成長期に大学進学率が3割に急増した背景には、農村子弟の上京があった。都会を選んだ世代が次の世代へと交代してゆく先には、いかなる未来図が描けるのだろうか。
 埒(らち)もないことを考えたのは、東京の私立中学校をめざして地方から上京した明治期の青少年の実態を鳥瞰(ちょうかん)図として描いた本書を読み、大いに頭を刺激されたからだ。大急ぎで付言すれば、著者の論じたのは学校教育法上の中学校、すなわち現在の中学校ではなく、尋常小学校修了者に中等教育を授ける場としての旧制中学である。
 一見すると、旧制高校帝国大学進学時の上京の方が一般的だったのではないかと思われるが、ナンバースクールとも呼ばれた旧制高校の場合、京都・東北・九州等、地方を単位として設置されたために進学行動は分散し、ただちに上京に結びつく訳ではなかった。 それでは、いかなる人物が、東京の私立中学をめざして上京したのだろうか。一人は群馬から攻玉社を経て海軍兵学校へと進んだ鈴木貫太郎。いま一人は福岡から共立学校(現・開成学園)を経て一高へと進んだ堺利彦の名を挙げうる。いうまでもなく攻玉社と共立学校が中学にあたる。軍人とジャーナリストの組合せは一見妙だが、生徒の8割強が士族で、薩長出身者以外の職としてこの二つが望ましかったことを知れば納得もゆくだろう。
 生まれたばかりの明治政府は、教育予算の8割弱を小学校に、2割を旧制高校・大学等の高等教育機関に振り向けて近代国家への道をひた走ったが、その間をうめる中学校教育には3%しか予算を割かなかった。一方政府は、敗者である士族にとって社会的上昇の機会となるべき高等教育機関への入学試験、その試験科目に英語・数学・物理等の近代学を要求した。幕府時代と同じ漢文・儒学等の伝統学が科目として要求されれば、地方の中学校でも対応が可能だったろう。だが、明治初年に近代学を教授できた教師は絶望的なまでに東京の私立中学校に集中していた。かくて、地方青年は東京をめざす。
 長期統計の整備によって、たとえば、1870年から1960年までを30年ごとに区切り、日本・中国・ブラジル・イギリス・ドイツ・フランス等の国々について、一人当たり実質GDPで比較することが今や可能となった。著者は、他の国々と比べて日本だけが、「マイナス成長の期間がなく、かつ前の三〇年間の成長率を次の三〇年間のそれが上回るという動きをみせている」事実に注目する。
 近代日本にこのような持続的成長を促した歴史的要因は何なのか。多様な説明が可能だろうが、私には著者の示した鳥瞰図が魅力的なものに映った。金も口も出さないが、高等教育機関に迎えるべき学生への要求値だけは頑として下げなかった明治政府。一方、政府の施策の矛盾をつき、受験予備校といわれようが何処(どこ)吹く風、地方青年の熱い向学心とまっすぐな立身出世欲を受け止めた東京の私立中学校。この奇跡のような組合せこそが、かつての日本にはあった教育の弾力性を生み出した背景と読み取れる。当年、不惑を迎える著者は、読む者に警醒と希望、二つながらを与えてくれる稀有(けう)の書を書いた。
    −−「今週の本棚:加藤陽子・評 『近代東京の私立中学校?上京と立身出世の社会史』=武石典史・著」、『毎日新聞』2012年04月15日(日)付。

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