不信心と信心の両方をともに置くという立場





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鶴見 実は一つだけ話の枕を用意してきたんだけど、鈴木晴久さんという人が『ろばのみみ』という雑誌をやっているんです。ロゴス英語学校という、牧師さんが経営している学校が目白のほうにあって、その牧師さんは事業経営が上手で、もと海軍の大尉かなんかで、牧師さんになってから宣教師に英語を教えてもらった。経営はすごく上手で、同時に平和への意志がつよいんだな。こういう人間がいると、かなりのことができる。『ろばのみみ』は、彼の教会の内部で編集して出している雑誌で、鈴木晴久は、その編集者です。
 その雑誌で「八重重吉特集」をやった。それで、八木重吉の詩について書いてもらいたいと思って村野四郎のところへ行ったら、村野四郎が「八木重吉の詩は好きじゃない。自分は神を信じてもいないし、そんなものは書けない」と言ったんだって。鈴木晴久さんが「じゃあ、信じてないという、神はいないというのを書いてください」と言って帰ってくる。その編集後記に、「八木重吉の信心と村野四郎の不信心の詩と、どちらがたいせつなものだろうか」と書いた。わたしはそれに感心した。鈴木晴久は別に八木重吉をわるいと思っているわけじゃない。八木重吉を好きでしょうがない。だから、八木について書いてくれと村野に頼みにいったんだ。そうしたら村野の不信心に会って、不信心の詩をもらってくる。そのときに、不信心と信心の両方をともに置くという立場に感心した。そこには、信心の立場に立ったときに、そっちのなかにこもりきりになると、不信心の側からは自分の信仰がみえなくなる、そして、不信心を切り捨てたら、自分の信仰は死ぬという自覚がある。
谷川 なるほどね。
鶴見 その揺れがすごいと思ったんだ。もし不信心を切り捨てたら、もうファナティシズム(狂信的心酔)しか残らない。その立場をとりたくないという考えかただ。「ああ、ここにこういう人がいる」と思ってね。しかも、その立場を教会の内部の雑誌として表現している。
 『定義』を読んでいて、この揺れと似た実質を感じたんだ。ある与えられた定義をそのままのみくだす人間になりたくない。つねに新しく自分のいまの状況のなかから定義していきたい。定義はいろんな定義が可能だ、こうも見られる、こうも見られる……。できるだけ厳密に、というのは手つづきであって、実際には、定義できない部分が出てきたり、別の定義が可能になったりする。数学のなかに自由があるように−−小学生、中学生の数学は自由じゃない、答えが決まっているけども、数学そのものは自由であるはずなんだ−−定義もまた自由であって、人間の精神の軌跡はそういうものだと思う。自由のもとのところには言語そのものの基本的なルールがあって、宗教心であろうと政治的な信念であろうと、同じルールを守るべきなんだ。そうでなければいつも肉体的な闘いになってしまう。別の定義のしかたがありうるというその揺れをたいせつにする、流派とも言えない流派が、『ろばのみみ』のなかにも『定義』のなかにもあると思った。
 『定義』について、迂遠なしかたでわたしの感想を述べれば、そういうものなんだな。与えられた定義をあたりまえのこととしてのむ立場というのは、日本の伝統のなかに根づいて、積みあげられてしまっている。しかし、そこから自由な領域を切り開く、別な立場がある。信仰にとっての不信公の意味をとらえる、そういう質のものを見失うとすれば、詩なんてものもプロパガンダ(宣伝)にしかすぎなくなる。そのことを意識している別の領域があるという気がしました。(一九七六年)。
    −−「世界の偽善者よ、団結せよ 谷川俊太郎」、『鶴見俊輔座談 学ぶとは何だろうか』晶文社、1996年、14−16頁。

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先日もある編集者と少し雑談するなかでも実感したことなのですが、「99パーセントはたぶんそうなのだろうけれども、充全にはそうなんだよなー(ないしはその逆もしかり)」という「留保」がますます受け入れられなくありような「空気」が濃厚になりつつあるのが今の社会の特徴かも知れません。

ほんと、たぶん、そう……ないしはその逆……なんだけど、「そうなんだ!(ないしは「違う!」)」って言い切れないとき、考える余裕を与えられるどころか、

「お前は敵か!!!」

みたいな脊髄反射ばかりで、「考える余裕」とか「咀嚼する時間」を与えない傾向に、そら恐ろしい気配を感じるのは僕ばかりではないと思います。

エスorノーという先鋭化した「つきつけ」をどんどん追究していくと、最後には、「生きた人間」は「誰もいなくなった」という状況になることは、革命の熱狂や恐怖政治を想起すれば、分かりやすいですし、そのほかにも、人間の歴史を振り返ってみるならば、事例には枚挙の暇がありません。

口角泡を飛ばしながら、「論破」していくことは、痛快かも知れない。そのことで確信を深める場合もあるだろうし、なにより自身の承認欲求を満たすことができるから。

しかし、それが目的になってしまうと自分自身をも、そして自分自身が大切にしているものまでも毀損してしまうのも事実だと思います。

簡単に「違うだろう」って言い切ることは簡単なのですが、やはり、「留保」を否定しない余裕をどこかに見出していかない限り、「豊かな」人間の世界というものはあり得ないと思うわけですが……、こういう言及をしてしまうと、

「そういうお前のだらしなさが、権力を増長させてしまうんだーーー!!!」

などと総括を喰らってしまうことは承知してはいるのですが、

う〜む、ホント、ここはわだかまりといいますか。

うーむ。





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