覚え書:「今週の本棚:鹿島茂・評 『子ども 上』=ジュール・ヴァレス著」、『毎日新聞』2012年06月10日(日)付。


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今週の本棚:鹿島茂・評 『子ども 上』=ジュール・ヴァレス著
 (岩波文庫・819円)

 ◇階級離脱への「鞭」が生んだ新たな悲惨の物語
 幕末・明治の日本を訪れた欧米人の目に最も奇妙に映ったのは日本人が子どもを非常に甘やかしているということだった。欧米人からすると、子どもは「野蛮」なのだから体罰=鞭(むち)という「文明」を省くのはしつけの放棄につながると見えたのである。

 これを歴史的に検証するのに最適なのが、パリ・コミューン参加で知られる作家ジュール・ヴァレスの自伝的三部作「ジャック・ヴァントラス」の第一部に当たる本書。献辞として掲げられた次のことばは作者の意図がこの文明化としての体罰という理念と戦うことだった事実を雄弁に示している。

 「子どものころ、教師にいじめられたり、親に殴られたりしたすべての者たちに、わたしはこの本を捧(ささ)げる」

 事実、小説はこんなショッキングな回想から始まる。「幼かったころに愛撫(あいぶ)された記憶は一度もない。(中略)いつも、ぶたれるだけだった。子どもを甘やかしてはいけない、これが母の口癖だ。そして毎朝ぼくをぶつ」
 体罰はマルチネという鞭でお尻を打つので大きな音を立てる。階下の年配の女性バランドローさんはその尻打ち音を時計代わりにしていたが、主人公の赤く腫れた尻を見て同情し、鞭打ちの代行を申し出る。当時は鞭打ち婆さんという体罰の専門職があったのだ。「バランドローさんはぼくを連れて行くが、お尻をぶつ代わりに自分の両手を叩(たた)く。ぼくはそれに合わせて悲鳴をあげる。夕方になると、母がお礼を言いに来る」

 では、この母親は現代日本の幼児虐待母親と同じなのかというとそうではない。鞭打ちは愛の表現なのだ。「母がきわめて論理的であることは、はっきり言っておかなければならない。子どもをひっぱたくのは、子どものためを思ってのことだ。(中略)子どもをひっぱたいたあとで十スー与えるような親、わけもわからずに子どもを叩いておいて、痛い目に遭わせたことをあとで悔やむような親より、ぼくの母のほうがずっと道理にかなっている」

 だが、わかったからといって叩かれた悲しみが消えるわけではない。リセの教員である父親も同じように厳しい。かくて、トラウマは永遠に残り、主人公はそれを小説に書く。

 では、いったいなぜ両親はこれほどまでにしつけにこだわったのか?
 それはともに農民の出身である自分たちが階級離脱できたのは欲望を自制できない民衆階級とは違ってそれが可能だったからと信じているためだ。ゆえに、もし子どもに自制心を植え付けられなければ、子どもはふたたび民衆階級に落ちる。それを予防するのは鞭しかない。

 父親もこの論理を学校で実践しているので生徒に嫌われている。おまけに身内をひいきしないという倫理が加わるから、主人公の悲惨は限りなくなる。

 それでも一度父親の愛を感じたことがあった。倹約家の母親が寄宿生食堂の残り物を居残っている主人公に与えるよう父親に命じた時のことである。父は息子を飢えさせるほうを選んだが、一度だけカツレツをノートに隠してもって来てくれたのだ。主人公は言う。あのカツレツのことを思い出すと父の過ちも許すことができると。

 しつけと教育こそが階級離脱の唯一の手段と信じられていた時代に出現した新たな悲惨を描いたヴァレスの傑作の第一部が読みやすい日本語に訳されたことを喜びたい。第二部は未訳なので、可能なら三部作の全訳を試みてほしいものである。(朝比奈弘治訳)
    −−「今週の本棚:鹿島茂・評 『子ども 上』=ジュール・ヴァレス著」、『毎日新聞』2012年06月10日(日)付。

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http://mainichi.jp/feature/news/20120610ddm015070013000c.html

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