愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。わたしたちは、他のものをしか愛することができない。
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愛は、わたしたちの悲惨のしるしである。神は、自分をしか愛することができない。わたしたちは、他のものをしか愛することができない。
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神がわたしたちを愛しているから、わたしたちは神を愛さねばならないというのではない。神がわたしたちを愛しているから、わたしたちはわたしたち自身を愛さねばならないのである。この動機がなかったら、どうして自分自身を愛することができよう。
このような回り道を通らないかぎり、人間には自分を愛することができないのである。
−−シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵』ちくま学芸文庫、1995年、106頁。
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仕事の都合上、少し、歪な承認欲求……要するに他者を否定しないと自身の存在理由を提示できないからというネトウヨ的それ……に関する文献をまとめて数日読んでいて、気持ちが悪くなったのですが、やっぱりこの問題は、真正面から受けておかないと、容易く権力に都合のいいかたちでミスリードされるから少しだけ。
「わたしじしんの存在を誰かにみとめてほしい」という心根自体を全否定することなんてできやしない。ぼくじしんだって「みとめてほしい」と思うことはよくある。
しかし、誰かを否定して自身の安心立命を確立するということは結局は、仄暗い「勝他の念」に起因するのものだから、これはろくなことがない。
もちろん、だれかよりもいい点数をとりたいとは思う。しかし、彼よりいい点をとることよりも、昨日の自分よりいい点数をとることが大事なんじゃないのかな。
このへんを勘違いしていくと、大きな勘違いへいたってしまう。
昨今、こうした議論を正当化する論調が多くて辟易としてしまう。
誰と比べるの?
自分自身とくらべましょうよ。
わたしじしんを肯定するのは、何かわたしじしんであるものとの比較によって成立するのではなく、まず、わたしじしんを肯定した上で、さてどうするか……じゃアないのかしらん???