書評:苅部直『丸山眞男 リベラリストの肖像』岩波新書、2006年。




手軽とはいえ、孫弟子の手による本格的な丸山眞男の評伝。生活史から丸山思想の背景をさぐる。

苅部直丸山眞男 リベラリストの肖像』岩波新書、2006年。

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 いったいいつから、批判するとかのりこえるとか、精神を継承するとかしないとか、剣呑な言葉でしか、過去の思想はかたられなくなってしまったのだろう。どんな人であっても、ひとりひとりの人間が深くものを考え、語った営みは、そんなに簡単にまつりあげたり、限界を論じたりできるほど、安っぽいものではないはずなのに。
    −−苅部直丸山眞男 リベラリストの肖像』岩波新書、2006年、225頁。

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遅まきながら、苅部直丸山眞男 リベラリストの肖像』岩波新書、読了。


この本は、評伝の体裁をとりながらも、ただたんに丸山の考え方や社会との関わりをカタログ風に時代順にならべただけではない。面白いのは、丸山の生活という観点から、思想形成を追ったところにある。
新聞記者の父のもとには、左を代表する長谷川如是閑、右を代表する井上亀六が自宅に出入する。知られざるエピソードがひとつひとつの挿画となって、丸山の歩みを多角的に彩り、思想形成をしていったその経緯は実に新鮮である。

さて筆者が注目するのは、丸山の「両義性」というスタンスである。少年時代の住まいも「山の手の新興住宅地」でありながら、近所には「荒木町の花街」、「鮫ヶ橋のスラム街」が存在し、父親の職業である新聞記者にしても「大新聞の社員」といってお、「気質の職業とは、必ずしも見なされていない」。東大助手への就任も、政治思想研究のはずが、日本思想史研究が要請されていく。

丸山のリベラル・デモクラシーの確立の格闘とは、どこを切り取っても「両義性」を強いられるなかで取り組まれたことがよくわかる。ここに単なる対決や、思想の新しさを気取ろうとする軽薄さをよせつけぬ丸山の丸山らしさをみてとることができる。そして、アマルティア・センのいう「アイデンティティーの複数性」を想起してしまう。

丸山には、過度の賛辞と過度の批判が存在する。そうした騒音に左右されずに、丸山の肖像を描いた本書は、はじめて丸山を読もうという人間にとって優れた水先案内となることは間違いない。



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 人と人、集団と集団、国家と国家が、それぞれにみずからの「世界」にとじこもり、たがいの間の理解が困難になる時代。そのなかで丸山は、「他者感覚」をもって「境界」に立ちつづけることを、不寛容が人間の世界にもたらす悲劇を防ぐための、ぎりぎりの選択肢としてしめしたのである。「形式」や「型」、あるいは先の引用に見える「知性」は、その感覚を培うために、あるいは情念の奔流からそれを守るために、なくてはならない道具であった。それを通してこそ、たがいの間にある違いを認めながら、「対等なつきあい」を続けてゆく態度が、可能になる。
    −−苅部直、前掲書、210頁。

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